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山名宗全邸宅跡

山名宗全邸宅跡

 山名宗全は応永11年(1404)に生まれ、名を持豊といい、後に宗全と号したが、赤ら顔であったので赤入道ともいわれた。但馬をはじめ数ヶ国を領し、強大な勢力を持っていた。

 子供がなかった将軍足利義政は、弟義視(よしみ)を後嗣にしようとしたが、その後、義政の夫人富子に義尚(よしひさ)が生まれたため、将軍職をめぐる後継者争いが起こり、応仁の乱に発展した。

 義尚を擁する宗全は、この邸宅を本陣として、室町今出川の花の御所に陣を置く義視方の細川勝元と東西に分かれて11年間に及ぶ戦いを繰り広げた。このため、京都の町の大半は焦土と化した。

 なれや知る都は野辺の夕雲雀

 あがるを見ても落る涙は

 (飯尾彦六左衛門尉常房)

 この地にあった山名家代々の邸宅も焼失し、宗全は文明5年(1473)、陣中で没した。

 このあたり一帯を西陣と呼ぶのは、宗全が幕府の西に陣を敷いたことによる。上京区堀川上立売下る西入藤木町

基本情報

正式名称 山名宗全邸宅跡
住所・所在地 堀川上立売下る西入藤木町

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