応仁永正戦跡舟岡山
京都の西北隅に優美な姿をよこたえる舟岡山は、平安時代には、数々の祭祀が行なわれ、遊宴の岡でもあった。しかし、中世後期には、戦略の要地として、この岡をめぐる攻防戦が戦われた。その第一は、応仁の乱にさいしてである。西軍の大内政弘、山名教之らがここに布陣して小ぜりあいが続き、応仁2(1468)年9月には西軍が三方から攻撃して攻め落とした。しかし本格的な陣地は築かれなかった。第二は、戦国時代、足利将軍家と細川家の内紛にさいしてである。永正8(1511)年8月、いったん丹波に逃れていた将軍義尹(よしただ)が、細川高国らとこの岡に細川澄元、細川政賢を攻め、京都を奪回した。しかし、将軍の権威は、戦国乱世のさなか、まったく有名無実であった。北区紫野北船岡町
基本情報
正式名称 | 応仁永正戦跡舟岡山 |
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住所・所在地 | 紫野北船岡町42(西陣勤労少年ホーム正面入口) |
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