西方寺
当寺は入逢山と号し、浄土宗西山派粟生光明寺に属する。この常盤の地は嵯峨野の入口に当たり、王朝時代から多くの貴族の別業が営まれた所である。
三條天皇の長子・敦明親王は後一條天皇の皇太子であった。しかし、この頃は摂政藤原道長の全盛時代であり、道長は一條天皇の中宮、彰子(道長の長女)の第三子敦良親王(のち後朱雀天皇)を春(とう)宮(皇太子)とするため圧力を加えた。そのために親王は寛仁元年(1017)八月、皇太子を辞し、太政天皇に準じ、小一條院の名を与えられて、この地に隠棲し、のち出家した。親王の没後、ここは寺となっていたが、鎌倉時代、法然の弟子、宇都宮頼綱入道蓮生が寺内に念仏堂を建て、西方寺と称するようになった。応仁の乱の頃、仁和寺が焼失し、寛永11年に再建されるまで170年の間、仁和寺の寺基がここなどに移してあったという。
敦明親王御歌
雲居まで立昇るべき煙かと
みえしに思いのほかにもあるかな
右京区常盤出口町
基本情報
正式名称 | 西方寺 |
---|---|
住所・所在地 | 常磐出口町 |
この情報を共有する
-
Twitterでシェア
-
Facebookでシェア
-
LINEで送る
URLをコピー