四之保社跡 威徳水
この地は、北野天満宮七保社のうち四番目に当る四之保社があったところである。
七保社とは、菅原道真が、大宰府で薨(こう)じた後、随徒の人々が帰京して、右京の地に建てたと言われている七ヶ所の御供所である。
保とは、元来、律令京師制の行政単位で、神社の神人居住区域を意味し、この地も、北野神人たちが居住し、商業などに従事する傍ら(かたわら)、神供調進にあたったといわれている。
当初、神宮寺新長谷寺が管掌し、藤原道長自作と伝える観音像を祀り、多くの帰依者を集めたが、元文5年(1740)に廃社した。
現在は、当時、威徳水と呼ばれ、病気平癒の御利益がある水として人々よりの信仰を集めた井戸跡のみが残されている。
なお、この付近の町名である中保町は、七保社のうち真中の四番目の保であったことからこのように呼ばれるようになったものである。中京区西ノ京中保町
基本情報
正式名称 | 四之保社跡 威徳水 |
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よみがな | よんのほやしろあと いとくすい |
住所・所在地 | 西ノ京中保町50 |
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