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京都五山の送り火の概要
京の夏の夜を静かにいろどる五山の送り火
夏の夜空に点火され、くっきりと浮び上る五山の送り火は、衹園祭とともに京都の夏をいろどる―篇の風物詩です。この送り火は東山如意ヶ嶽の「大文字」がもっともよく知られていますが、そのほかに金閣寺附近、大北山にある大文字山の「左大文字」、松ケ崎西山(万灯籠山)と東山(大黒天山)の「妙法」、西賀茂船山の「船形」および嵯峨鳥居本曼荼羅山の「鳥居形」があり、これが8月16日夜、相前後して点火されます。これを京都五山送り火と呼んでいます。
なお、以前には「い」(市原野)・「ー」(鳴滝)・「竹の先に鈴」(西山)・「蛇」(北嵯峨)・「長刀」(観空寺)なども、送り火として点火されていましたが、早く廃絶に帰してしまいました。
―般的に、送り火そのものは盆の翌日に行なわれる仏教的行事であり、ふたたび冥府にかえる精霊を送るという意昧をもつものですが、これも仏教が庶民の間に深く浸透した中世、それも室町以後のことでしょう。通説によれば、この夜、松明の火を空に投げ上げて虚空を行く霊を見送るという風習があり、京都五山の送り火は、これが山に点火されてそこに留ったものであるといわれています。
事実、江戸時代に山の送り火とならんで平地でも、その風習が行われていたようです(「花洛細見図」所収の送り火の絵図には、投げあげてはいないが、松明をかかげもち、あるいは地中に立てて供花している情景が描かれている)。京都市北部で現在も行われている(松上げ行事)も、おそらくこの風習と関係があるものとおもわれます。
点火の起源
この荘厳な行事を、誰が何時はじめたものなか…という疑問がありますが、残念ながら、それぞれ俗説はあるものの、不思議と確実なことはわかっていません。
大文字
如意ヶ嶽の大文字については、これが送り火の代表的なものであることから俗説も多く ①時期は平安初期、創始者は空海、②室町中期、足利義政、③江戸初期、近衛信尹などがあります。
①は『都名所図会』などに記されるところで、往古山麓にあった浄土寺が火災にあった際、本尊阿弥陀仏が山上に飛来して光明を放ったことから、その光明をかたどって点火したものを、弘法大師(空海)が大の字に改めたというのですが、その後近世に至るまで如何なる記録にも大文字のことが記されていないため、全くの俗説にすぎません。空海に仮託された起源説は其の他数説ありますが(『大文字噺』『山城四季物語』など)、いずれもとるに足りません。
②足利義政を創始者とする『山城名跡志』説は、義政の発意により相国寺の横川景三が指導して義政の家臣芳賀掃部が設計したとしています(義政が義尚の冥福を祈るために横川が始めたというのも同様のこと)。
③近衛信尹の説は、寛文2(1662)年に刊行された『案内者』によると、次の如く記されています。
山々の送り火、但し雨降ればのぶるなり…松ケ崎には妙法の2字を火にともす。山に妙法といふ筆画に杭をうち、松明を結びつけて火をともしたるものなり。北山には帆かけ船、浄土寺には大文字皆かくの如し。大文字は三藐院殿(近衛信尹)の筆画にてきり石をたてたりといふ。
著者の中川喜雲は寛永13(1636)年生れであり、慶長19(1614)年に歿している信尹と年代的にあまりはなれていないこと、また信尹は本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに寛永の三筆といわれた能筆家であること、それ故信尹に仮託されたと考えられないこともないなどから、この説の妥当性が考えられます。いずれにせよ、大文字送り火はおそらく近世初頭にはじめられたものと思われます。近年大文字送り火に関する古文書、ならびに大文字山が銀閣寺領であったという資料が銀閣寺から発見され、これらの記録から送り火は室町中期足利義政を創始者とする説がもっとも正しいように思われると地元では言っています。
妙法
松ケ崎の妙法は、麓の涌泉寺の寺伝によると、西山の「妙」の字は、涌泉寺の前身の松崎寺が鎌倉末の徳治元(1306)年日像の教化によって天台宗から法華宗に改宗して妙泉寺となった際、日像が西山に妙の字をかいて点火したものだといい、また東山の「法」の字は、妙泉寺の末寺下鴨大妙寺二祖日良が東山にかいたのがはじまりといわれています。 妙・法の2字が同時に作られたものでないことは、妙の字体が草書体であることに対し、法の字体は隷書体であることからも推察されます。日蓮宗徒の唱えるお題目は「南無妙法蓮華経」であり、2文字が一体である由縁です。
船形
船形万燈籠送り火は、東山の「大」に対して、「船」を「乗」とみなし「大乗仏教」を表しているという伝承や、お盆に先祖を彼岸へ送る「精霊流し」の船を模しているなどさまざまな説があり、西方寺の開祖である慈覚大師円仁にちなんだものとも伝えられています。唐へ留学していた円仁が帰路、暴風雨に遭った際、布切れ(船板片という説もあり)に南無阿弥陀仏と書いて海中に投じると、たちまち風雨が静まって無事帰国することができたという故事があります。
左大文字
左大文字は、江戸時代前期の公家日記に「山門へのほりて市々の火を見物、西山大文字、舟、東山大文字、各見事也」と記載があり、当時の段階で「西山」と「東山」に一つずつ「大文字」が存在していたことが分かります。ここでいう「山門」とは比叡山のことで、東山の大文字が今の大文字送り火、西山は、今でいう西山(西京区)ではなく、大北山の左大文字送り火のことと思われます。というのも、同時期に鹿苑寺(金閣寺)の住職を務めていた禅僧の日記には「当山」という記載があり、鹿苑寺の山上で大文字が点されていた様子が分かるからです。
鳥居形
鳥居形松明送り火が歴史史料に初めて登場するのは神沢貞幹の随筆で、絵画では『洛外図』という絵地図です。この図には、「大文字」「妙法」「船形」「鳥居形」の四つの送り火の図形(ここでは、左大文字は見当たりません)が、「七月十六日山火」という記述と共に記載されています。鳥居形は、公家や僧侶の日記にはあまり出ておらず、鳥居形は京の中心から西北に離れており、京の町からは見えなかったので書き漏らされたのではないかという推測もあります。
京都五山送り火ワード
五山送り火連合会
京都五山送り火連合会は、特定非営利活動法人大文字保存会、公益財団法人松ヶ崎立正会、船形万燈籠保存会、左大文字保存会、鳥居形松明保存会によって組織されています。
火の行事には消防署による徹底した防火管理等が必要なため、京都市消防局のバックアップも不可欠であり、記録伝承の保存や補助金など京都市による援助も必要です。
京都五山送り火が、伝統を誇る民俗行事として観光京都の発展に寄与するため、官民一体となり、各保存会の緊密な連携と協力によって、送り火行事の円滑な執行と伝承が図られています。
「京都五山送り火連合会」 https://gozan-okuribi.com/2022/ja/top.html
赤松
送り火の準備は1年仕事です。中でも、重要なのが、点火資材である松割木(まつわりき)や松明(たいまつ)にする「赤松」の確保。送り火に用いる木はどんな木でも良いというわけではなく、適度な油を含む「赤松」が松明として最適とされています。しかし、この赤松も切ってから直ぐに使うのでは水分が多いため、冬場には伐採して、空気の乾燥した冬に充分乾燥させておかなくてはなりません。最近では松喰虫による被害で赤松も入手が困難となり、赤松の植樹を始めた保存会もあります。このように、保存会の1年は赤松を育てたり、探したり、伐採したり、乾燥させたり、忙しい日々を送ります。
消し炭
祖先の霊を送り、冥福を祈るための送り火ですが、それと同時に多くの人々は残された自分たちの健康や家内安全も併せて祈ります。
送り火を焚いた後の松明の炭は、「消し炭」あるいは「からけし」などとも呼ばれます。浄火によって焚かれた松明のため、その炭もやはり浄化されたものであるとの信仰があり、翌朝以降、競ってその「消し炭」を求めに登ります。細かく砕いて、少量服用すると虫下しに良い、奉書紙で包んで玄関などの門口に掲げておくと魔除けになるなどの民間信仰が根強く残っています。