狩野永徳と長谷川等伯

狩野永徳と長谷川等伯
かのうえいとくとはせがわとうはく

織田信長や豊臣秀吉など天下人の象徴、城内の障壁画群、また彼らが修理を命じた御所の障壁画群。「狩野永徳(かのうえいとく、1543-1590)」が家督を継いでからは、主な発注はほとんど狩野派で占めていました。祖父の築いた職業技能集団としてのシステマティックな仕事ぶり、つまり分業制による障壁画の制作が、大量注文の受注を可能にしたのです。遅咲きの天才絵師と言われる「長谷川等伯(はせがわとうはく、1539-1610)」も最初は、狩野派の絵師でした。しかし、歯車的に仕事をこなす狩野派の方針について行けず、独立し長谷川派を立ち上げます。おそらく面識のあった千利休のとりなしでしょうか、豊臣秀吉から大きな仕事を任されました。愛児鶴松の菩提を弔うために建てた「祥雲禅寺」の金碧障壁画。そう今に伝わる智積院(ちゃしゃくいん)の国宝障壁画です。息子や門人と共に長谷川派総出で完成させたのですが、その直後、後継ぎの久蔵(きゅうぞう)が26歳で若くして亡くなってしまいます。また画檀のシェア争いをしていたライバルの狩野永徳も48歳の働き盛りでこの世を去ります。等伯は晩年江戸の将軍家に呼ばれ、その帰りの旅の道中で亡くなりました。享年72歳。

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