小川治兵衛

小川治兵衛
おがわじへえ

江戸時代から明治時代へと時代が大きく変わったころ、庭園の発注主も武家や公家から、政財界の要人へと大きく変わっていきました。明治維新の直後、庭園史にとっても大きな分岐点に登場したのが「小川治兵衛」です。「小川治兵衛」という名は「植治(うえじ)」の代々の当主が継ぐ名前で、正確には「七代目小川治兵衛」となります。「植治」イコール「七代目」と言われるくらい著名な方です。優れた造園家には、インスピレーションを与える良きスポンサーがいたようで、この七代目にとっては、明治の元勲(政界の大物)「山県有朋(やまがたありとも)」がそうでした。彼はそれまでの日本庭園よりももっと明るく開放的で自然をより多く取り入れた庭を、所望しました。苔よりも芝生を多く取り入れ、水を留める池よりも、渓流を多く造ることによって音による楽しみも加え、さらにその水には当時開通したばかりの琵琶湖疏水を使いました。もちろん、それまでの日本式の庭を否定するのではなく、随所に伝統は守りつつも、新しいスタイルを庭の世界に吹き込んでいったのです。彼の代表作は数多く残され、「無鄰菴(むりんあん)」「平安神宮神苑」「並河靖之邸(七宝記念館)」「円山公園」ほか、多数あります。

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