明治維新以降、衰退した京都経済を復興するため、府は勧業施策のひとつとして明治6年(1873年)金属製ジャカードをフランスから導入した。その重責を担ったのが、西陣の優秀な技術者である織工・佐倉常七、染色工・井上伊兵衛、器械工・吉田忠七の3名であり、フランス派遣に選抜された。 リーダー格の佐倉常七(当時37歳)は、 選ばれたことの喜びよりも見知らぬ国へ行く不安について書き残している。それは維新後、数年しか経っていない時であり、文化や習慣、言葉もまったく違うフランス派遣についての偽らざる心境とも言える。 不安と驚きの連続であったと思われるフランスで、佐倉常七、井上伊兵衛の二人は約8ヶ月間滞在しジャカード、紋彫機など数種の機械を、無事持ち帰った。しかし、吉田忠七はその後も一年滞在して、織機の買付けや技術の研鑽に努めたが、帰国途中の伊豆沖で船が沈み帰らぬ人となった。 ちなみにジャカード(フランスのジャカールが発明)とは、紋紙と呼ばれる記録紙から縦糸を持ち上げる位置を示す穴を針で読取り、縦糸開閉を自動的に調整できる機械装置であり、これを織機に取付ける(連動させる)ことによって、作業の簡素化と生産性の飛躍的な向上を実現した。 さらに、明治10年(1877年)に金属製ジャカードは、京都・西陣の機大工・荒木小平によって木製ジャカードとして国産化に成功。その後の日本の繊維産業の近代化とともに西陣の繁栄を築いた。