「計画と実行力だけでなく、夢とロマンが偉業を成し遂げた。」

田邉朔郎21歳の時、工部大学校(現在の東京大学工学部)を出たばかりの彼に、当時の京都府知事・北垣国道の依頼で、完成時の総工費が125万円(現在の貨幣価値にして1兆円以上)にもなった巨大プロジェクトが託された。
それは、明治維新以降衰退した京の再生に心を砕いていた北垣国道が京都に卒業研究に来ていた田邉朔郎と出会い、「琵琶湖疏水」実現への夢が結びついた結果とも言える。
疏水工事は明治18年(1885年)6月2日に着工するも、当初から周辺では完成が危ぶまれていた。しかし、近代土木事業は外国人技術者に頼っていた時代にも関わらず、彼らの手は一切借りず、4年8箇月の期間に延べ400万人ともいわれる人力のみで全長約20キロメートルにもおよぶ難工事は、多くの犠牲者を出したものの、明治23年(1890年)3月ついに完成した。これは豊臣秀吉以来の為政者たちが果たせなかった夢でもあった。
工事の中でも、最大の難関であったのが長等山トンネル。大津口と山科口の両側および、山上から掘り下ろした竪坑から東西両口に進み、穴と穴をドッキングするという先進の掘削技術が要求されたものの、これも自分達の手で見事に完工した。
これによりアメリカに次ぐ世界で二番目の事業用水力発電を誕生させ、その電気は機業、電燈、動力、工業、交通運輸などあらゆる分野に絶大な影響を与え、京都の近代化の推進力となった。

■琵琶湖疏水完成後は、八重もその美しいアーチ型の水路閣を見に南禅寺界隈を散策したであろう。
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