「素人たちの力がひとつになった時、市街電車が産声をあげた。」

日本初の市街電車「チンチン電車」が、ゆっくりと誇らし気に京都・七条(現在の京都駅周辺)から南部の伏見・下油掛(当時の物資運送の拠点・伏見港)へと動きだした。その時の車体は長さ6.6 メートル、幅1.98メートル、色はブルー、定員は28名。腰掛けはビロード張りで、窓は片側に7面、車内には5個の電球がつけられていた。後年、長さ8.382メートル、幅2.045メートルに大型化された。そして、時速 は10キロのゆっくりとしたスピードだが、まぎれもなく日本初の市街電車であった。
それより遡る明治21年(1888年)、府会議員・高木文平が渡米した時に見た市街電車が頭から離れず、いつか京の町にも走らせたいとの思いを強めていた。その熱い思いに打たれた人たちが、心をひとつにして、日本で初めての市街電車の会社である京電(京都電気鉄道会社)が設立され、実現への大きな一歩が踏み出された。そして幸いにも、その頃の京都では蹴上発電所の電力供給が行われ、都大路も整然とし、敷設の条件が揃っていたのと、岡崎に開催される第4回内国勧業博覧会の会場への交通移送(同年4月1日市街線として開通)としての大義名分により、当時、政府には京電だけでなく、 東京、愛知、大阪、奈良からも電気鉄道設置の出願があったが、京都に最初の敷設が認められた。
しかし認可は得たものの、国内には手本となるものもなく遠く米国から資料や本を取り寄せ、試行錯誤の末やっと開業に漕ぎ着けた。幾多の困難と壁に当たりながらも、市街電車を走らせる夢と熱き情熱とが、京の市街交通を近代化へと導いた。

■八重は、ほどなくして市街線となったチンチン電車を移動手段として大いに利用したことであろう。
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