幕末のジャンヌダルク | |
---|---|
1845年(弘化2年) | 会津藩の砲術師範の家に生まれる。(11月3日) |
1865年(慶応元年) | 川崎尚之助と結婚。のちの会津戦争の最中に離縁 |
1868年(慶応4年) | 鳥羽・伏見の戦いの後、兄・覚馬は捕われ弟・三郎は戦死 |
1868年(慶応4年) | 覚馬、「管見」を薩摩藩に提出 8月、八重は戦死した三郎の着物を着て、スペンサー銃を携え 鶴ヶ城(籠城戦)で戦う。 9月、城外の一ノ堰の戦いで父・権八が戦死 9月、会津藩降伏。鶴ヶ城開城 |
1870年(明治3年) | 覚馬、京都府の顧問格に就任 |
近代のハンサムウーマン |
|
1871年(明治4年) | 八重、母・佐久、姪・峰、伯母と共に覚馬を頼って上京 |
1872年(明治5年) | 女紅場(現在の京都府立鴨沂高等学校)で公職を得る。 ここで裏千家13代千宗室(圓能斎)の母と知りあい、後に茶名「新島宗竹」を 授かり茶道教室を開く。 |
1875年(明治8年) | 八重、新島襄と知り合い婚約 |
1876年(明治9年) | 八重30歳、襄32歳、結婚式を挙げる。 |
1877年(明治10年) | 同志社分校女紅場(のちの同志社女学校)の礼法等の教員となる。 母・佐久は同校の舎監となる。 |
1890年(明治23年) | 夫・襄永眠、享年46歳 |
日本のナイチンゲール |
|
1890年(明治23年) | 日本赤十字社正社員となる。 |
1892年(明治25年) | 兄・覚馬永眠、享年64歳 |
1894年(明治27年) | 日清戦争勃発。 翌年にかけて4ヶ月間広島で篤志看護婦として従軍 |
1895年(明治28年) | 日本赤十字社終身社員となる。 |
1896年(明治29年) | 母・佐久永眠、享年87歳 |
1905年(明治38年) | 日露戦争時、大阪で2ヶ月間篤志看護婦として従軍 |
1906年(明治39年) | 勲六等宝冠章を受ける。 |
1932年(昭和7年) | 八重、自宅で永眠。享年86歳(6月14日) |
1862年(文久2年) | 会津藩主・松平容保が京都守護職に着任 |
1864年(元治元年) | 会津と長州による蛤御門の変(禁門の変)が勃発 |
1867年(慶応3年) | 江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜による大政奉還 |
1868年(慶応4年) | 鳥羽・伏見の戦いが、戊辰戦争の始まりとなる。 京都府と改称 |
1869年(明治2年) | 2度目の東京行幸(事実上の東京遷都) |
1871年(明治4年) | 廃藩置県の施行 |
1889年(明治22年) | 京都市の誕生 |
1869年(明治2年) | 京都上京第27番組小学校(柳池小学校)が、国の学制より3年早く開校 |
1870年(明治3年) | 理化学研究施設の舎密(せいみ)局が開設 |
1871年(明治4年) | 日本最初の博覧会開催(西本願寺書院にて) |
1872年(明治5年) | 新英学校女紅場が開校(丸太町鴨川西岸) 西陣織の職工3人をフランスへ派遣 近代病院の先駆けの療病院が開設(青蓮院内) |
1874年(明治7年) | 京都府織殿が開設(河原町二条辺り) |
1875年(明治8年) | 同志社英学校(現在の同志社大学)が開校 幼稚園(幼稚遊嬉場)が開園 |
1876年(明治9年) | 京都府洋紙製造工場が創業 |
1877年(明治10年) | 有人水素気球の飛揚に成功 国産木製ジャカード機完成 |
1890年(明治23年) | 琵琶湖疏水が貫通 |
1891年(明治24年) | 商用発電所・蹴上発電所が操業 |
1895年(明治28年) | 市街電車が運行 |
1896年(明治29年) | X線写真の撮影に成功 |
1908年(明治41年) | 時代劇映画「本能寺合戦」が完成 |
※上記の近代化事業は、日本初の事業でもあります。 |