「未知への挑戦とあくなき追求が、大発明家を育てあげた。」

明治8年(1875年)京都木屋町二条の地で、梅治郎(二代目 島津源蔵)の父である初代・島津源蔵は教育用理化学器械の製造業を創設した。これが島津製作所の起源。
この地は京都府が産業振興策の一環として、欧米の最新技術と設備、人材を結集した舎密(せいみ)局、栽培試験場、勧業場、織工場を設立した地域でもあった。
初代・島津源蔵は明治10年(1877年)、京都御所において日本初の有人水素気球の飛揚に成功した人物としても有名であったが55歳で急逝。父の遺志を継ぎ明治27年(1894年)に家督を相続した梅治郎は、その才能を大きく開花させ、2年後の明治29年(1896年)には、X線写真の撮影にいち 早く成功し、後には国産初の医療用X線装置を開発した。当時、島津のレントゲン撮影機は高額にもかかわらず、病院の名がつく規模の医療機関で置いていないところはない、とまでいわれるようになった。
昭和5年(1930年)61歳の時には日本の10大発明家の一人に選ばれ、宮中晩餐会に招待されている。

■八重は軽気球の飛揚を学舎から生徒達と共に見上げたかも。後年、篤志看護婦として活躍した時には、この医療用X線装置とともに看護・医療を行っていただろう。
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