「一人の男の情熱と多くの小さな善意が、近代の学び舎を築いた。」

幕末の函館港から上海へ行く商船で密出国した新島襄(本名・七五三太/しめた)、その時21歳。
上海で出会った米国船「ワイルド・ローヴァー号」の船長テイラーから、船長付ボーイの仕事を得ると同時に英語も教わる。この時に与えられた呼び名が“ジョ−”である。
ボストン到着後は船主のハーディー夫妻が学費・生活費一切の面倒を見てくれる幸運にも恵まれ、新島襄はフィリップスアカデミー、アーモスト・カレッジを経て、アンドーヴァー神学校に進学した。そして優秀な成績を修めて9人の卒業演説者の一人に選ばれている。米国での約10年におよぶ勉学生活の間、米国の優れた文明の背景には、キリスト教精神があるということを悟る。
新島襄は近代国家への道を歩み始めた日本には、科学技術を学ぶ前にキリスト教精神を学ばなければならないと考え、帰国前にキリスト教主義の学校を日本に設立する理想を強く抱いた。
明治7年(1874年)新島襄31歳の時、バーモント州ラットランドの教会で行われたアメリカンボードの年会の演説で、学校設立を訴えた。演説後、新島襄の前に一人の老人が歩み出て、懐中から2ドルを差出し、涙を流しながら「私は貧しい百姓です。この2ドルは帰りの汽車賃ですが、あなたの学校設立の志に打たれました。年老いていても私はまだ、わが家に歩いて帰ることができます。あなたが将来建てられる大学の費用の一部に加えてくだされば、こんなうれしいことはない」と言って、その2ドルを手渡した。
この様に同志社の設立には、一人の男の情熱と実に多くの人々の善意と支援に支えられていたのである。

■八重とのエピソードとして、新島襄がアメリカの友人に送った手紙の一文に「彼女は見た目は決して美しくありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。」と、書いてあった。
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