京都の映画文化と歴史
第18回
溝口健二の碑
黒澤明、小津安二郎、成瀬巳喜男らとともに、世界的に有名な映画監督・溝口健二。フランスの映画監督ゴダールを始め、数々の映画人が訪れた溝口ゆかりの地があります。
溝口健二の碑
場所:満願寺
(東山区岡崎法勝寺町)
溝口健二の碑
平安神宮南の道を東へ行くと、閑静な住宅地の中に「満願寺」があります。その本堂に寄り添うようにあるのが「溝口健二の碑」です。大映社長の永田雅一の名で「世界的映画監督」と刻まれ、裏には勲四等瑞宝章が授与されたことが記されています。また、傍らにある銭の形をしたもう一つの石碑には「大・阪・物・語」の文字。溝口が白血病で入院した時に次回作として準備中だったのが『大阪物語』で、この碑には施主として、出演予定だった二代目・中村鴈治郎の名前が刻まれています。
カメラの長回しの多用、人間を深く描ききった脚本と緻密な時代考証、何も言わずにひたすらやり直しを命じる演技指導など、徹底した妥協のない演出で、世界が認める作品群を生み出した溝口健二。その影響を公言する世界の映画監督は数多くいます。
彼の作品群を支えたのもまた京都の活動屋たちでした。この地に分骨されていた遺骨は生まれ故郷の東京に戻りましたが、京都を愛した溝口の思いはこうして満願寺に留められています。
満願寺から南へ下っていくと、そこは全国的にも有名な寺院が多数集まる格好のロケ地帯となっています。
<『一心太助 男の中の男一匹』(1959年/東映/沢島忠監督/萬屋錦之助出演)>
臨済宗南禅寺派の大本山「南禅寺」は、今も昔も撮影が行われつづけるロケ地の老舗。南禅僧堂前の坂道を馬が駆け、塔頭の建ち並ぶ北側の通りは都大路となりました。(『陰陽師』(2001年/東宝/滝田洋二郎監督)等)
また明治期に作られた赤レンガ造りの「琵琶湖疏水水路閣」が境内を通っており、こちらのレトロな風景もいかにも京都らしいロケ地となっています。(『球形の荒野』(1975年/松竹/貞永方久監督)等)
<『続・赤穂城』(1952年/東映/荻原遼監督/片岡千恵蔵出演)>
三条通を南へ越えると、そこは近年、青不動明王の御開帳で話題となった天台宗「青蓮院門跡【しょうれんいんもんぜき】」。京都市の天然記念物に指定された楠が植えられた長屋門など、門跡寺院らしい落ち着いたたたずまいが数々の時代劇に登場しています。(『維新の曲』(1942年/大映/牛原虚彦監督)等)
知恩院
青蓮院門跡の南に隣接して、浄土宗総本山の「知恩院【ちおんいん】」。日本最大の三門(国宝)とそれにつづく長い階段(男坂)は、ハリウッド映画『ラストサムライ』(2003年/ワーナー・ブラザーズ)でも撮影され、石積みに囲まれた北門は江戸の大名屋敷や城内のシーンなどでもしばしば撮影されてきました。
<『古都憂愁姉いもうと』(1967年/三隅研次監督/藤村志保出演)>
さらには様々な映画やTVのロケ地となった「八坂神社」と「円山【まるやま】公園」。そして京都の象徴として、「八坂の塔」(法観寺)、起伏に富んだ「産寧坂【さんねいざか】」、世界文化遺産の「清水寺【きよみずでら】」と、東山山麓はロケ地が密集する一大撮影地帯となっています。
脚本完成後、撮影準備の中で最も時間を要する作業がロケ地探し=ロケーション・ハンティング(以下、ロケハン)です。
脚本に指定されたシーンを何処で撮影するのか。大別して、このシーンはロケーション、このシーンはステージ内のセットあるいはオープン・セット、と仕分けされた後にロケハンが開始されるのですが、時代劇・現代劇を問わずこの作業に1ヶ月を要することもしばしばです。しかしそれでも適当なロケ地が見つからない場合、条件の整った場所にロケ・セットを建てることになります。
"あのロケは何処でやったのですか"。作品を見てそう問い合わせを受けてもロケ・セットは撮影終了と共に撤去されていて、痕跡すら残されていないという場合もあるのです。