京都市メディア支援センター

京都の映画文化と歴史

第9回

東映京都撮影所

昭和の初期、"日本のハリウッド"と唄にまで唄われた処は?そう、京都の太秦です。そして、その太秦に初めて撮影所をつくった人といえば・・・。


東映京都撮影所
場所:右京区太秦蜂ヶ岡町
(写真は東映京都撮影所前身 阪東妻三郎プロダクション)

かつてこの辺りは葛野郡太秦村と呼ばれ、一面が竹藪に覆われていました。その竹藪を切り開き大正15年(1926)、この地に撮影所を建設したのは剣劇王と言われた阪東妻三郎でした。彼は前年に日本初となるスターの個人プロダクションを設立し、その拠点をこの地に求めました。
以来、幾変遷を経て現在の東映京都撮影所に至っています。その歴史を追うと・・・。


東1958年頃の東映京都撮影所 空撮写真

①阪妻プロ太秦撮影所(1926-1930)
②松竹太秦撮影所(1930)
③帝キネ太秦撮影所(1930-1931)
④新興キネマ太秦撮影所(1931-1942)
⑤大映京都第二撮影所(1942-1947)
⑥東横映画撮影所(1947-1951)
⑦東映京都撮影所(1951-現在)


東映京都撮影所となった当初、東映は膨大な負債を抱え込み、再起不能とまで言われていました。しかし、東急専務から東映社長に就任した大川博の徹底した予算主義と、マキノ光雄氏(マキノ雅弘監督の実弟)の陣頭指揮により息を吹き返します。
俳優では、片岡千恵蔵、市川右太衛門、中村錦之助(萬屋錦之助)、大川橋蔵、大友柳太郎、東千代之助、美空ひばり、里見浩太郎、鶴田浩二、高倉健、若山富三郎、藤純子(富司純子)、菅原文太、松方弘樹、北大路欣也、渡瀬恒彦、他。
監督では、松田定次、マキノ雅弘(雅広)、内田吐夢、佐々木康、田坂具隆、今井正、加藤泰、沢島忠(正継)、河野寿一、工藤栄一、山下耕作、五社英雄、深作欣二、中島貞夫、他。 この映画人たちが東映を、そして日本映画の黄金期から現在までを支えてきたのです。


現在の東映京都撮影所

東映京都撮影所の門をくぐるとまず正面に"俳優会館"という建物が見えます。こちらは俳優さんたちの待機・準備場所です。左手には制作部、右手には食堂と美術部の建物が見えますが、実はこの撮影所内には現像処理を除く映画製作の全ての機能が備わっています。

時代劇の撮影が多いため、鬘【かつら】や着物、江戸時代の道具類も多数あり、それらを扱う職人さんの会社が入っています。
刀は安全性を考えて竹光【たけみつ】を使用するため、傷みが激しく、高津商会の出張所が設けられ、別の作業場で、職人さんが特殊な銀箔(すずはく)を貼って修復します。 これらは牧野の時代から脈々と受け継がれてきた伝統技術であり、この技術に支えられて今も映画やTVドラマは製作されつづけているのです。


現在、東映京都撮影所内は原則非公開ですが、太秦シネマフェスティバルを始めとする各種イベントで、撮影所の全貌を見ることが出来ます。
(情報はhttp://www.uzumasacinema.net/にて)


MAP


column

総敷地面積約20,000坪以上、日本最大の規模を誇る東映京都撮影所。昭和30年代の映画全盛期には、毎週邦画各社で2本立てを封切りという、すさまじい量産体制が敷かれていました。東映の主力はここ京都撮影所で、年間60本以上製作しないといけません。日曜も祭日も返上し、徹夜も当たり前。「東映京都撮影所では歩いている者はいない、皆走っている」と言われるほど忙しく、活気に満ちていました。


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