京都市メディア支援センター

京都の映画文化と歴史

第6回

山国隊寄進石灯籠

京都の三大祭の一つである時代祭。その先陣をきって進むのは、ピーヒャラ・ドンドンドン・・・あの鼓笛隊、山国隊です。その山国隊と日本映画の父・牧野省三の意外な関係とは・・・。


山国隊【やまぐにたい】寄進石灯籠
場所:北野天満宮(上京区馬喰町)


山国隊寄進石灯籠

山国隊は幕末、官軍に加わって戊辰戦争を戦った、山国郷(現在の右京区京北町)の農兵隊でした。北野天満宮の境内奥に"山国隊"と刻まれた石灯籠があります。山国隊が寄進した灯籠です。
この鼓笛隊を率いていたのが、山国隊の創始者の一人で、取締だった藤野斎【いつき】で、日本映画の父・牧野省三の父親です。母親は義太夫芸妓の牧野彌奈【やな】と言い、牧野省三には日本的な旋律が染み込んでいたのです。
また、ここ北野天満宮は出雲阿国【いずものおくに】が初めて歌舞伎踊を踊った"歌舞伎発祥の地"と言われるように芸能ゆかりの地でもあります。周囲には上七軒・五番町などの花街があり、室町時代には町衆の間に流行した風流踊り【ふりおどり】の集結地であり、まさに日本の大衆芸能の聖地ともいわれた場所でした。牧野省三はこの地において母親と共に芝居小屋を経営しながら、芸の感性を研ぎすましていったのです。



<『妖蛇の魔殿』(1956年/東映/松田定次監督/片岡千恵蔵出演)>

そして明治41年(1908)、牧野は映画を製作することになります。この瞬間、19世紀機械文明と、伝統芸能の歌舞伎が結びつけられました。"時代劇"が誕生した背景には、北野という地の特性があったのです。


北野天満宮 御土居

北野天満宮の境内に、"御土居"【おどい】という史跡が残されています。秀吉の時代に洛中全域を土塁で城壁のように囲んだ跡で、この洛中と洛外を結ぶ、いわゆる"京の七口"の一つ、長坂口が北野天満宮の北の方にありました。人の往来が多く、北野界わいが賑わう一つの理由でもあったのです。


旧牧野邸 土蔵

また、北野天満宮の東側、御前通沿いにはかつて牧野省三の邸宅がありましたが、火事で焼失。今は土蔵造りの一棟が残るのみとなっています。現在、別人の所有となり公開はされていませんが、土蔵内の二階にはフィルムの収納棚が残されています。


MAP


column

牧野が時代劇を作り続けられた背景には、伝統芸能に加え、伝統工芸が京都で盛んだったことがあります。調度類や西陣を中心とした織物などが映画の道具や衣装を支えたのです。
特に西陣の職人の技術力は映画においても発揮され、壊れた撮影機は海外へ送るのが当たり前の時代に、西陣の職人が修理したそうです。


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