京都の映画文化と歴史
第4回
尾上松之助の胸像
日本で最初の"映画スター"とは・・・。その人の名は"目玉の松ちゃん"の愛称で子供から大人まで親しまれた尾上松之助【おのえまつのすけ】(1875-1926)。そして驚くなかれ、氏が出演した映画の数は、何と1,000本を超えるという超人でもありました。その松ちゃんに会うことの出来る場所、それがこの地です。
尾上松之助の胸像
場所:葵公園
(左京区下鴨宮河町)
鴨川三角州
豊かな水の流れと美しい景観により人々の憩いの場となっている、鴨川。その賀茂川と高野川の合流点にあたる出町柳の葵公園に、ギョロリ目をむいた尾上松之助の胸像があります。昭和41年(1966)、当時の蜷川虎三京都府知事により設立されました。
松之助は大衆に愛された役者でした。50歳で亡くなった時には号外が出され、葬儀の沿道には20万人の人々が押し寄せて死を悼んだと記録が残っています。
また、スターとして儲けたお金を京都府、京都市、その他に寄付して貧しい人たちのための住宅を建てるなど、映画を離れても常に眼差しは大衆に向いていました。
松之助の人生には、牧野省三が大きく関係しています。最初に尾上松之助を活動写真の俳優として見出したのも牧野でした。
明治42年(1909)、松之助デビュー作『碁盤忠信【ごばんただのぶ】』を撮影。以降、横田商会で牧野とともに、専ら大衆に受ける映画を作りつづけ、爆発的な人気を博すこととなります。とくに立川文庫による忍術映画は少年ファンを熱狂させたそうです。
松之助は役者をしながら日活大将軍撮影所の所長を務め、日本で最初の重役スターとなりますが、長年体を酷使し続けてきたことが無理をきたし、大正15年(1926)、50歳という短い生涯に幕を閉じます。
しかし、娯楽映画の楽しみを提供し続けた松之助は、人々の心に深く残ったのです。
糺の森
葵公園から北上すると、突如として広大な原生林が広がり、街中にいること忘れさせます。ここは世界文化遺産に登録された賀茂御祖神社【かもみおやじんじゃ】(下鴨神社)の境内・糺の森【ただすのもり】です。
<『眠狂四郎殺法帖』(1963年/大映/田中徳三監督)>
下鴨神社の糺の森は映画やTVにおいても実に多くの作品のロケ地となってきました。(『華の乱』(1988年/深作欣二監督/吉永小百合・松田優作出演)、『浪人街』(1990年/松竹/黒木和雄監督/原田芳雄・樋口可南子出演)等)
また、賀茂川東岸の下鴨宮崎町にはかつて、大正12年(1923)から昭和49年(1974)にかけて撮影所が存在していました。大正年間は「松竹下加茂撮影所」と呼ばれ(昭和に入り「松竹京都撮影所」と改称)、田中絹代や林長二郎(後の長谷川一夫)がここでデビューを果しています。
<『徳川一族の崩壊』(1980年/東映/山下耕作監督)>
現在、松竹下加茂撮影所はその痕跡すら残っていませんが、鴨川や糺の森という絶好のロケ地に囲まれ、当時はさぞかし映画撮影で賑わっていたことでしょう。
尾上松之助が当時大人気となった理由には"活動写真向きの動き"が挙げられます。
当時お芝居と言えば歌舞伎で、立居振舞いもゆっくりと様式化されたものでした。ところが映画は活動写真というように、動きが早く活発なものが面白いのです。
その点松之助は、ケレン(早変わりや宙乗りなどの演出)のある軽快な動きが得意でした。すでに映画製作を行っていた牧野省三は"舞台の演技と活動写真の演技は違う"ということにいち早く気付いており、松之助の動きに目をつけたのです。