東山区安井北門通上る万寿小路西側
崇徳上皇は、保元の乱で敗れて讃岐に流されて、怒りに荒れ狂う中で無念の死を遂げた。崇徳上皇に寵愛されていた阿波内侍が御遺髪を譲り受けて、この地に一塚を築き、霊を慰めたと伝えられる。その頃、京都では崇徳上皇の怨念によるものと思われる異変が相次いで発生したため、後白河法皇は御影堂や粟田宮を建てて、冥福を祈り怨念が鎮まるよう努めた。それらは幾度かの再建で室町時代まで存続したが、応仁の乱での消失でいずれも廃絶した。当時の遺物としては、白峯神宮所蔵の崇徳天皇御影(重文)が唯一残されている(現在は京都国立博物館にて保管)。また、阿波内侍の墓所も近くにある(祇園甲部歌舞練場敷地内のため立入不可)。