人物一覧ページ

平清盛

1118~1181

平忠盛の長男で、平安末期に平氏全盛期を築いた武将。保元の乱では源義朝と共に後白河天皇側について勝利をおさめ、後白河の側近・信西と結び政界に進出。続く平治の乱では義朝を抑えて勝利し、武士として初めて太政大臣に就任した。地位を退き出家した後も、娘の徳子を高倉天皇の后とし、平氏一門の昇進を図るが、鹿ケ谷事件を契機に後白河との対立が深まっていく。さらに徳子が産んだ安徳天皇を即位させ国政の実権を握るが、源氏など反平氏勢力が各地で挙兵、平氏滅亡前に熱病で死亡した。享年64歳。また祖父の代から関係した日宋貿易にも取り組み、大輪田泊(今の神戸港)を修築し瀬戸内海の水運を盛んにした。

平重衡

1157〜1185

平清盛の五男。母は時子。23歳で左近衛権中将になる。武将として多くの勲功を立てた。治承4年(1180)、以仁王・源頼政の挙兵を鎮圧。南都焼討で東大寺大仏や興福寺を焼亡させたため仏敵とされた。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利するが、一ノ谷の戦いで源範頼・義経に敗れ捕虜となり鎌倉に移送された。源頼朝はその武士としての器量を認め厚遇したという。平氏滅亡後、焼討を憎む南都の要請で引き渡され、木津川の畔で斬首、その首は般若寺門前にさらされた。琵琶を弾き、漢詩を朗詠する風流な人であったため、『平家物語』では「牡丹の花」にたとえられている。

平重盛

1138~1179

清盛の長男として生まれ、母は高階基章(たかしなもとあきら)の娘。小松第(京都市東山区)に屋敷を構えていたことから「小松内大臣」といわれた。保元・平治の乱で活躍ののち平氏の政界進出とともに順調に出世、後白河上皇の近臣となる。後白河の反平家の近臣により清盛追討が計画された、いわゆる鹿ヶ谷事件が発覚した際には、後白河を鳥羽殿に閉じ込めようとした清盛を諫めた。元来病気がちで、内大臣退官ののちに出家、42歳の若さで病没した。平家物語では、清盛とは対照的に冷静沈着で道理をわきまえた理想的な人物として描かれ、「文章うるはしうて心に忠を存じ才芸すぐれて詞に徳を兼ね」と絶賛されている。

平忠盛

1096~1153

平清盛の父。白河・鳥羽両院政のもとで軍事力の中心になって活躍。山陽・南海両道の海賊を鎮圧した。越前、伊勢、河内、備前、美作などの国守を歴任する間に西国地方の武士と主従関係を形成、勢力を拡大した。37歳の時には、武士として初めて公式に天皇に謁見する資格を持つ殿上人となる。また、日宋貿易にも関係して経済力を築き、のちの平氏繁栄の基礎を築き上げた。しかし、急激な経済的成長は貴族層の反感も招いた。「平家物語」には、貴族たちに闇討ちされかけるが、機転をきかせて反対に威圧する様子が描かれている。歌人としての才能にもあふれ、歌集に「平忠盛朝臣集」などがある。享年58歳。

平時子(二位尼時子)

1126~1185

平清盛の妻。平時信の娘。兄は清盛側近の平時忠。清盛との間に、重盛、宗盛、知盛、重衡、徳子(建礼門院)らを出産。妹の滋子(建春門院)は、後白河上皇の妻。後に、滋子が後白河との間に生んだ憲仁親王(のちの高倉天皇)の乳母となる。清盛が病で倒れたのを機にともに出家。徳子が高倉の后になってから従二位(じゅにい)の位階を授けられたので、二位尼(にいのあま)と呼ばれた。清盛亡き後は後見的立場として平家一門の精神的な支柱となったが、壇ノ浦の戦いで平家が敗戦すると、宝剣と孫の安徳天皇を抱えて海に身を投げた。享年59歳。

建春門院

1142~1176

後白河天皇の后、高倉天皇の生母。平時信の娘。清盛の妻・時子の異母兄妹。後白河の妹・上西門院(統子内親王)に仕え小弁局(しょうべんのつぼね)と呼ばれたが、後白河の目に留まり寵愛を受けて憲仁親王(高倉天皇)を出産。「健寿御前日記」や「建礼門院右京大夫集」には、美貌や華やかな生活とともに、飾らない気さくな性格と知性あふれる人柄、気配りの細やかさが描かれている。後白河の寵愛が深かった滋子の存在は、清盛と後白河との関係を緊密にするなど、政界にも隠然たる力を誇り、平氏一門の権力拡大に重要な役割を果たした。滋子の没後、後白河は平氏勢力削減を狙い清盛との対立を深めるようになる。享年34歳。

建礼門院徳子

1155~(?)

平清盛の次女。安徳天皇の生母。父の政治権力の拡大の中で後白河法皇の息子・高倉天皇の后となる。高倉の逝去後に、清盛は後白河の后に据えようとしたが、徳子は拒絶した。木曾義仲の攻撃により平氏とともに都落ちし、壇ノ浦の戦いで平氏が敗れた際には、息子の安徳天皇とともに海に身を投じたが救助される。源義経に京都へ護送されて長楽寺で出家。その後は、大原の寂光院で平家一門の冥福を祈る余生を送った。没年は30過ぎ~70歳と諸説あり。平家物語「灌頂巻」では、後白河が訪ねた折に変転激しい人生を振り返るくだりが描かれ、徳子の往生をもって全巻が締めくくられる幕引き役となっている。

後白河天皇

1127~1192

第77代天皇。鳥羽天皇の第4皇子。皇位継承の可能性はなく、今様(歌曲の一形式)に明け暮れていた。異母弟・近衛天皇の逝去後、器量がないとの周囲の評判をはねのけ即位。鳥羽が逝去し、保元の乱での勝利で地位を不動のものにしたが、3年余りで譲位し院政を敷いた。平清盛の力を利用しながら、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代34年にわたって院政を行った。鹿ヶ谷事件で清盛との対立を深めて鳥羽殿に押し込められたが、平氏への相次ぐ反乱の後に復権。清盛が亡くなると、次は源氏と手を結び、平氏を滅亡に追いやる。その後も木曽義仲、源頼朝らと対応し、朝廷の存続を図った。今様「梁塵秘抄」の撰者。享年65歳。

斎藤滝口時頼・横笛

生没年不詳

平重盛に仕え宮中警護に当たる滝口の武士。横笛(生没年不詳)は建礼門院の雑仕女で、今様、朗詠、琴、琵琶、和歌にすぐれた。時頼は清盛が開いた宴の席で横笛の舞う姿に魅せられ、二人は恋に落ちるが、父に身分の低い女との恋を反対され、19歳で出家、滝口入道と呼ばれる。横笛は出家した時頼を忘れることが出来ず寺を訪ねるが、時頼は涙ながらに追い帰し、再び来られると修行の邪魔になるとして高野山に入った。それを知った横笛は奈良・法華寺で尼となる。一説には大堰川に身を沈めたとも伝わる。のちに時頼は高野聖となり、高野山で出家した平維盛が紀伊勝浦で入水する際に立ち会っている。

白河法皇

1053~1129

第72代天皇。後三条天皇の第1皇子。即位時に異母弟の実仁が皇太子に立てられたことを契機に、父の遺志に逆らい、弟の子孫ではなく自己の子孫に皇位を継承するために精力を注いだ。父と実仁の死により幼い長男(堀河天皇)を皇太子にたてすぐに譲位、院政を開始。その後も、鳥羽天皇(堀川の長男)、崇徳天皇(鳥羽の長男)も即位させ、3天皇・43年間にわたり政治の実権を握った。また、御所と僧兵の争乱に備えて源平両氏を起用、武士進出のきっかけを作った。仏教を深く信仰し、聖地である熊野や高野山には何度も参詣しているほか、京都白河(京都市左京区)に、九重塔をもつ法勝寺を建立した。享年76歳。

信西(藤原通憲)

生年不詳~1159

父は藤原実兼。一時、高階経敏の養子となって高階姓を称したこともあったが藤原姓に戻った。代々学者の家系で、諸道に優れた博学の人として知られたが家柄が低かったため出世できず少納言で出家。法名は信西。妻の朝子(紀伊局)が後白河天皇の乳母であった関係から即位と同時に重用された。保元の乱では天皇方に勝利をもたらし、権勢を得て政治を左右するほどになった。その後、後白河院政にて黒衣姿で辣腕を振るい、近臣の藤原信頼と対立し、平清盛と結んで義朝を疎外。平治元年(1159)に平治の乱が起こると信頼、義朝らの追撃を受けて殺された。その学問の幅広さは、『通憲入道蔵書目録』によって窺い知れる。

崇徳天皇

1119~1164

元永2年(1119)、鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(待賢門院)の第一皇子として生まれる。第75代天皇。名は顕仁。実父である祖父白河院により5歳で皇太子となり、鳥羽の譲位により即位したが、院政は鳥羽がとり続け、白河院の死後、退位させられ、後白河即位により第一皇子重仁親王即位の望みも断たれる。失意の中で藤原頼長と組み保元の乱を起こしたが敗れて讃岐に流される。長寛2年(1164)配所で没。戦死者供養と反省の証にと讃岐より京の寺に収めてほしいと差し出した五つの写本を拒否された怒りから、死後怨霊として世人に恐れられ、為政者はその慰撫に努めたとも言われる。陵墓は香川県坂出市の白峰陵。

常磐御前

1138〜没年不詳

近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)の奥向きの召使いで、仕えるにあたり都千人の美女の中から選ばれたという。源義朝の側室となり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、牛若(後の源義経)を産む。平治の乱で義朝は敗北、平清盛の追手を逃れて大和に隠れるが、母を人質にとられたため六波羅へ子連れで自首。この時、清盛の妾となり、一女を産んだとも伝えられる。のちに公家の一条長成に嫁ぎ、一条能成や女子を産む。義経が異母兄である頼朝に追われる身となると、常盤は京都の一条河崎観音堂の辺りで義経の妹と共に鎌倉側に捕らえられた。その後の生死について詳細は不明。

鳥羽上皇

1103~1156

第74代天皇。父・堀河天皇の病死を受けて5歳で即位。天皇在位中は祖父・白河上皇による院政の時期で、皇位継承の問題をめぐり白河と対立を深め、皇太子・顕仁親王(崇徳天皇)に譲位させられた。白河の死後、崇徳、近衛、後白河3代の天皇28年間にわたって院政を敷き、出家ののち法皇となった。白河の子ともいわれた崇徳に冷たく当たり、譲位後に自らの皇子を二代にわたり即位させたことで、皇位継承をめぐる皇統内部の対立を招き、没後に朝廷内を二分して争われた保元の乱が勃発する要因となった。独自の政策を推し進め、伊勢平氏を政権の基盤に取り込むなどした。熊野信仰に傾倒し、参詣は20回を超えた。享年53歳。

藤原忠実

1078―1162

関白藤原師通の長男。母は右大臣俊家の娘全子。祖父師実の養子となり、藤原氏長者となる。その後、白河法皇の院政下で関白となる。鳥羽天皇の即位にあたり摂政、太政大臣と出世し、鳥羽の元服により関白に。娘の鳥羽入内問題をめぐって,白河との政治的連携に亀裂が生じた保安元年(1120)、内覧を停められ,宇治に隠遁。後に内覧に復帰したが職を辞し、長男忠通がかわった。鳥羽院政の開始と共に准三として復帰。晩年は忠通が父を退け関白となった不満から次男頼長を露骨に後援し兄弟の対立を深め、保元の乱の一因を作った。頼長の敗死により知足院に籠居。天台宗の僧、慈円には執念深い人だったと評されている。

藤原頼長

1120―1156

平安後期の公卿。保安元年(1120)、関白藤原忠実の第2子として生まれる。母は忠実の家司、藤原盛実の女で、いわば妾の子。その後、異母兄の摂政忠通の子となり、宮中に出仕して17歳で内大臣に上って世人を驚かせた。学問に異常な熱意を注ぎ、政務にも励み、政治の刷新と古儀の復興に実績をあげた。久安6年(1150)、父忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧となったが、その苛烈で妥協を知らない激しい性格により「悪左府」と呼ばれた。後に鳥羽法皇の信頼を失って失脚。崇徳上皇と手を結び保元の乱を起こしたが、あえなく敗死。後に朝廷は、その霊を慰め鎮めるため粟田宮を建て、崇徳上皇とともに祀った。

源為義

1096〜1156

祖父は源義家、父は義親。義朝の父であり、頼朝、義経、木曽義仲の祖父。兄の義忠暗殺後に河内源氏の棟梁となる。六条堀河に住んだことから六条判官と呼ばれる。14歳で左衛門尉に任じられ、後に検非違使となる。本人と郎党の不祥事により院(白河法皇・鳥羽上皇ら)の信頼を失い、受領に任じられることもなく官位は低迷。このため摂関家に近づき、藤原忠実・頼長父子に臣従した。保元の乱では崇徳上皇側につき敗北。比叡山で出家し自首したが、後白河方についた長男の義朝の手で処刑された。七条朱雀(船岡山の説も)で斬首され、北白河円覚寺(現在はない)に葬られたと伝えられている。享年61歳。

源義朝

1123〜1160

源為義の長男。源頼朝・源義経らの父。坂東(関東地方)育ちで上総曹司と呼ばれた。成人後、鎌倉を本拠として南関東の武士団の統合を図った。保元の乱で後白河天皇方につき、軍事力の中核として戦い勝利。敵方の父や弟らの助命を嘆願したが許されず、自らの手で処刑した。乱後、左馬守に任じられる。平治元年(1159)、信西と対立していた藤原信頼と結び、清盛が熊野詣に出た隙をついて平治の乱を起こした。一時は成功したが清盛の急襲により敗北、東国へ敗走した。尾張の家人・長田忠致(おさだただむね)のもとに身を寄せるが、長田父子によって入浴中に暗殺される。享年38歳。

このページの先頭に戻る