広域-北

嵐山公園(亀山公園)村岡局像

嵐山公園(亀山公園)村岡局像
  • 京都市右京区嵯峨亀ノ尾町

正式には「嵐山公園」だが、亀山天皇、後嵯峨天皇、後伏見天皇の火葬塚があることからこう呼ばれる。村岡局は天明6年(1786)、嵯峨に生まれた。尊攘派公卿として有名な近衞忠凞に仕え、水戸藩士・鵜飼吉左衛門、西郷隆盛など薩摩藩士や志士たちと交流しその連絡係にもなった。篤姫が徳川家定に嫁ぐ際には養母格だったという。清水寺成就院の月照とも親交が深かった。経験豊かで太っ腹、賢く情に厚い村岡は他の重臣とは別格といっていいほど忠凞に信頼されていた。安政5年(1858)の安政の大獄で「押込」となり、74歳で江戸に護送された。同公園には角倉了以の銅像も立つ。

岩倉具視公旧蹟碑(霊源寺)

岩倉具視公旧蹟碑(霊源寺)
  • 京都市北区西賀茂北今原町

霊源寺は寛永13年(1636)、後水尾上皇が仏頂国師を開山として創建。霊元上皇の勅願所となるなど、朝廷の帰依を受けた。岩倉家の菩提寺でもあり、和宮降嫁に尽力した岩倉具視は尊攘派に排斥されて失脚。霊源寺で剃髪し、5年にわたって岩倉村で蟄居生活を送った。蟄居の間、諸藩の志士と討幕を論じ、明治維新を推進。慶応3年(1867)、明治天皇の践祚とともに復権を果たすと、同年12月9日「王政復古の大号令」を実現させ、翌年1月、戊辰戦争が始まる。

岩倉具視幽棲旧宅

岩倉具視幽棲旧宅
  • 京都市左京区岩倉上蔵町

下級公家だった岩倉具視は、朝廷の復権をもくろみ、公武合体を唱えて和宮降嫁に尽力する。しかし、そのために急進派公卿や尊攘派の志士たちから憎まれ、文久2年(1862)から5年間、朝廷より追放され剃髪して洛北・岩倉村で蟄居生活を送ることになる。蟄居の間も王政復古実現の夢を捨てず、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保利通などがしばしば岩倉を訪れていた。岩倉具視幽棲旧宅は茅葺きと瓦葺きの平屋2棟。岩倉の遺髪塚もある。敷地内にある対岳文庫は昭和3年(1928)、武田五一の設計により建てられた。維新の資料が展示されている。

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梅田雲濱先生旧蹟碑

梅田雲濱先生旧蹟碑
  • 京都市左京区一乗寺葉山町

葉山観音(一燈寺)の参道入口を入って左側に立つ。嘉永3年(1850)、ここに梅田雲濱が葉山観音堂の堂守として住んでいた。雲濱は若狭小浜藩士。江戸に遊学し、藩主・酒井忠義に藩政改革・海防策を建言したことを藩政批判とされ除籍。浪人となり困窮の中、同寺の堂守小屋に住んだ。尊攘派志士として活躍し、安政の大獄で伏見奉行に捕縛され江戸へ護送。翌年亡くなる。一燈寺は皇室にゆかりの深い古寺。現在は観音堂、十三重石塔などが立つのみ。

圓光寺 村山タカの墓

圓光寺 村山タカの墓
  • 京都市左京区一乗寺小谷町

圓光寺は慶長6年(1601)、徳川家康が数学の発展のため伏見に圓光寺学校を開いたのが起源。相国寺山内を経て、寛文7年(1667)現在地に。多くの書籍が出版され「伏見版」「圓光寺版」と呼ばれた木版活字が伝わる。村山タカは元祇園の芸妓。不遇時代の井伊直弼の愛人といわれ、直弼が大老になった後は長野主膳の命を受け、女スパイとして活動する。直弼が暗殺されると薩長の志士に捕まり、三日三晩三条河原で生きさらしにされるが、尼僧に助けられたという。後に「妙寿」の名をもらい、左京区の金福寺で修行して出家する。墓地に村山タカの墓がある。

上賀茂神社(賀茂別雷神社)

上賀茂神社(賀茂別雷神社)
  • 京都市北区上賀茂本山

正しくは「賀茂別雷神社」という。世界文化遺産。祭神である賀茂別雷大神が神山(こうやま)に降臨したのを祀ったのが起源とされる古社。賀茂別雷大神の母・玉依媛命(たまよりひめのみこと)、祖父・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は下鴨神社に祀られている。下鴨神社を「下社」、同社を「上社」といい、総称して「賀茂社」と呼ぶ。孝明天皇の賀茂社、石清水社への攘夷祈願に随行するため、文久3年(1863)3月4日、将軍・家茂(いえもち)は上洛。徳川家としては実に230年ぶりに二条城に入った。11日に賀茂社に参拝するが、これが、朝幕関係逆転の契機ともなった。

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弘源寺本堂の刀痕

弘源寺本堂の刀痕
  • 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町

弘源寺は天龍寺の塔頭。参道の途中にある。永享元年(1429)、細川右京太夫持之公により創建された。この寺の本堂の柱には、元治元年(1864)の蛤御門の変で、ここに陣を構えた長州藩士が試し斬りをしてつけたという刀傷が数カ所残っている。竹内栖鳳をはじめ、日本画を収集しており、嵐山を借景にした枯山水の庭園「虎嘯(こしょう)の庭」もある。

小松帯刀寓居参考地碑

小松帯刀寓居参考地碑
  • 京都市上京区一条通堀川東入松之下町

小松帯刀は、28歳で薩摩藩家老になった。藩主・島津久光の優秀な右腕として活躍。交易で藩の財政を豊かにし、軍備・教育・産業に力を入れ藩の近代化に尽くした。西郷隆盛、大久保利通を登用し、亀山社中と龍馬を支援した。お龍との結婚の時も世話役を務めたという説があり、薩摩への新婚旅行でも龍馬夫妻は小松邸に滞在している。ちなみに龍馬と小松は同い年である。小松は京都では近衞家の堀川屋敷を寓居としたとされ、石碑には「近衛堀川屋敷跡」とある。

金福寺

金福寺
  • 京都市左京区一乗寺才形町

貞観6年(864)、安恵僧都が創建。一時荒廃したが江戸時代中期に鉄舟和尚が再興し、芭蕉と親交が深く芭蕉がしばしば訪れたことから芭蕉庵がある。その後寂れた芭蕉庵を復興したのは与謝蕪村。同寺には近世俳人の墓や句碑が数多くあり、俳句ファンのメッカとされる。井伊直弼の暗殺後の文久2年(1862)、三条河原で生きさらしにされた村山タカはこの寺で出家し、享年68歳で没するまでの14年間を過ごした。タカが建てて弁財天坐像を祀っていた弁天堂もあり、タカの位牌をはじめ小机など、遺品やゆかりの品も展示されている。

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三縁寺

三縁寺
  • 京都市左京区岩倉花園町

三縁寺は、もとは東山区縄手通三条下ルにあったが、昭和54年(1979)、現在の場所に移転した。池田屋騒動で命を落とした志士たち9人の遺体が事件後置き捨てられたままだったのを、三縁寺に運び込んで手厚く葬った。この時、身元の確認をしたのは、池田屋の女中・清水うのとも「勤皇ばあさん」と呼ばれ志士たちの面倒を見た小川亭の小川テイともいわれる。池田屋事変殉難烈士の墓として、宮部鼎蔵(ていぞう)、松田重助、大高又次郎、吉田稔麿、北添佶磨、望月亀弥太、杉山松助、石川潤次郎、廣岡浪秀のほか、上松源友胤が眠る。

直指庵

直指庵
  • 京都市右京区北嵯峨北ノ段町

大覚寺のさらに奥、北嵯峨の竹林の中にひっそりとたたずむ。境内は四季折々の花が楽しめる。静寂の中に心が癒やされる寺として知られ、思いの丈をつづるノート「想い出草」もある。正保3年(1646)、独照性円が結んだ草庵「没蹤庵(ぼつしょうあん)」が起源。禅の「直指人心」の教えに従い、寺名を付けず「直指庵」とした。幕末、近衞家老女だった村岡局(津崎矩子(のりこ))が再興し、明治6年(1873)、88歳で亡くなるまで隠棲した。境内には村岡局の墓もある。晩年、村岡局は女子教育に尽くし、その功績をたたえられて大覚寺大沢池畔に石碑が立ち、嵐山公園(亀山公園)に銅像もある。

天龍寺

天龍寺
  • 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町

臨済宗天龍寺派大本山。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため開創。暦応2年(1339)、夢窓疎石を開山として「天龍資聖禅寺」と改めた。世界文化遺産。元との貿易を行う天龍寺船で栄え、至徳3年(1386)、京都五山の第一位となった。元治元年(1864)の蛤御門の変では、長州藩が陣を構えた。天王山、藤森、天龍寺の3カ所に分かれて御所へと攻め入ったが、天王山の隊は越前藩に攻められ、藤森の隊は幕府側諸藩や新選組に攻められ敗走した。天龍寺の国司信濃が率いる隊は蛤御門からなだれ込み会津と戦った。

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