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人物一覧

井伊 直弼

井伊 直弼

1815~60。彦根藩13代藩主。11代・直中の側室の14男であったため、36歳まで自らの住まいを埋木舎として不遇をかこつ。しかし次々と跡継ぎが亡くなり、直弼はついに13代藩主となり、幕府の大老に就任。幕府は将軍継嗣問題で揺れていた。徳川斉昭、島津斉彬、松平慶永(春嶽)、閣老の阿部正弘らが推す一橋慶喜(よしのぶ)に傾くかとみえたが、直弼はすべて断ち切るかたちで徳川慶福(よしとみ)(家茂(いえもち))を跡継ぎに定め、さらに勅許を得ないまま日米修好通商条約を結ぶ。安政の大獄で政敵をすべて処分。桜田門外の変で水戸浪士に暗殺される。享年46歳。

岩倉 具視

岩倉 具視

1825~83。前権中納言・堀河康親の次男。後に岩倉具慶の養子になった。岩倉家は禄高150石の貧乏公卿だった。岩倉は朝廷の復権を求めて、和宮降嫁による公武合体を画策するが、急進派公卿や志士から憎悪され、朝廷からも免職され洛北・岩倉村での蟄居を申し渡される。蟄居生活中も、龍馬をはじめとする勤皇派の志士たちと討幕論を戦わせていた。慶応3年(1867)、孝明天皇が崩御し明治天皇が立つと岩倉も復権、王政復古を実現させる。明治政府でも外務卿や右大臣を務め政治的手腕を発揮する。享年59歳。

大村 益次郎

大村 益次郎

1824~69。長州鋳銭司の村医者に生まれた。緒方洪庵の適塾で蘭学を学ぶ。宇和島の伊達宗城に招かれ、軍艦製造に携わる。講武所教授として幕府に仕えたのち長州藩兵学者雇となる。大村は次第に頭角を現し、藩政の中枢になり藩政改革を推進していく。幕府の第二次長州征伐では、長州軍を指揮し事実上の勝利へと導く。戊辰戦争でも新政府軍を指揮して軍功を重ね、初代兵部大輔に就任。新政府の軍制改革に取り組んだ。明治2年(1869)、京都で会談中に不平士族の凶刃に倒れる。大坂の病院に搬送され2カ月後に死亡した。享年46歳。

桂 小五郎(木戸 孝允)

桂 小五郎(木戸 孝允)

1833~77。長州藩医・和田家に生まれ、桂九郎兵衛の養子になった。西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれる。松下村塾に入った後、江戸で剣術・造船術・蘭学を学んだ。長州藩の藩論が公武合体に傾くと、久坂玄瑞や高杉晋作と共に反対運動を起こした。八月十八日の政変、蛤御門の変で長州が失脚すると一時但馬・出石に身を隠すが、長州に戻り対幕戦に備えて藩政を改革。京都で薩長同盟を結ぶ。常に新選組に命を狙われていた桂を支えたのは芸妓・幾松(松子)。明治政府では五箇条の御誓文の草案に加筆・修正し、廃藩置県などを行った。

久坂 玄瑞

久坂 玄瑞

1840~64。長州藩医・久坂家の次男として生まれる。藩校・明倫館に入り医学所で医学と蘭学を学ぶ。九州遊学後、松下村塾に入り、高杉晋作と並んで村塾双璧といわれた。江戸に遊学して尊攘派の志士たちと交流。脱藩し過激な尊攘運動に身を投じていく。その一方で詩才にも優れ、中でも八月十八日の政変で「七卿落ち」を詠んだ即興詩は白眉といわれる。島原の角屋で遊ぶと見せかけて、密議を凝らしていたことでも知られる。蛤御門の変で、炎上する鷹司邸にて自決した。享年24歳だった。

後藤 象二郎

後藤 象二郎

1838~97。土佐藩上士の家に生まれる。土佐勤王党に暗殺された吉田東洋は親戚にあたり、東洋の塾で学び薫陶を受けた。21歳で幡多郡奉行に抜擢されるが、東洋の暗殺で失脚。文久2年(1862)に山内容堂が復権すると大監察になり、土佐勤王党を弾圧。武市(たけち)瑞山らを獄に投じる。一方で洋船の買い付けのため長崎、上海に行き見聞を広げた。長崎では龍馬と会い、世界情勢について語り合っている。後藤は赤字の亀山社中を「海援隊」として、藩の援助を受けられるようにした。龍馬の「船中八策」に立ち会い、大政奉還の建白を決意し、成功させる。

近藤 勇

近藤 勇

1834~68。多摩の農家の3男に生まれる。がき大将だったが、天然理心流の道場「試衛館」に入門して剣術を習い始めるとすぐに頭角を現し、道場主・近藤周助に養子として迎えられる。道場には沖田総司、井上源三郎、山南敬助らもいた。文久3年(1863)の幕府の浪士組募集で彼らの運命は大きく変わる。後の新選組だ。近藤は局長。池田屋事件で名を挙げ、慶応3年(1867)に幕臣クラスに取り立てられるが、倒幕へと動いていく政局を見極めることができず、戊辰戦争では近代兵器の前に敗れた。近藤は下総・流山で捕らえられて斬首される。享年35歳。京都での新選組の活動期間はわずか5年だった。

西郷 隆盛

西郷 隆盛

1827~77。薩摩藩の下級武士の子として生まれる。藩主・島津斉彬に提出した上申書が目に留まり、斉彬に抜擢されて江戸屋敷庭方役となり、藤田東湖、橋本左内ら一流の人物と交流を深める。斉彬の連絡係となるが、斉彬が急死し安政の大獄で月照とともに追われる身となる。絶望した二人は入水自殺を図るが月照は死に西郷は蘇生。この件で西郷は奄美に潜居せよと命ぜられる。久光によりこののち2度の島流しを経験するが、蛤御門の変後、藩の中心人物になっていく。龍馬の周旋で薩長同盟を結び、討幕運動を進め戊辰戦争で勝利するが西南戦争で自決。享年51歳。

坂本 龍馬

坂本 龍馬

1835~67。土佐藩郷士の家に生まれる。幼いころは泣き虫だったが、剣の道に進むとともにたくましく成長していく。剣術で江戸に遊学した際、黒船を見たと思われる。これを契機に世界に目を向ける。土佐勤王党に参加したのち脱藩。勝海舟と出会い海軍操練所開設に尽力。勤皇の志士として奔走しながら、日本初の総合商社といわれる亀山社中(後の海援隊)を設立する。貿易で国力をつけ、日本を列強国と肩を並べる国にするのが夢だった。薩長同盟を成立させ、「船中八策」は大政奉還、日本の近代化の青写真となった。近江屋で暗殺される。享年33歳。型破りの魅力がある人物だった。

佐久間 象山

佐久間 象山

1811~64。信州松代の真田家家臣・佐久間一学の長男。幼少時から文武両道の天才として名を馳せる。江戸に遊学し渡辺崋山や藤田東湖と親交を深める。藩主に海外事情研究を命ぜられ、西洋兵学や蘭学を学び自身もカメラや電池などを製作したが、弟子の吉田松陰の密航事件に連座して松代で8年間蟄居生活を送る。許されて、元治元年(1864)に上洛するが、開国や公武合体を唱えたため、尊攘派の河上彦斎に暗殺される。享年54歳。象山は身長188センチ。西洋人のような風貌で威厳があり、常に白馬「王庭」にまたがり都大路を闊歩していた。

武市 瑞山

武市 瑞山

1829~65。土佐国長岡郡吹井村の白札格(上士と郷士の間の身分)の家に生まれた。高知城下の新町に剣術道場を開く。龍馬とも仲が良く、龍馬は屋敷を訪れては夜遅くまで議論を交わしたという。一藩勤皇を目指し、192人の同志を集めて「土佐勤王党」を結成する。公武合体派の吉田東洋の暗殺を命じたほか、京に出て「天誅」と称する佐幕派の暗殺や朝廷工作に奔走する。上士格の留守居役にまで昇格するが、八月十八日の政変で土佐に戻り、吉田東洋暗殺の嫌疑で獄舎に。翌年には切腹を命じられる。享年37歳。

寺田屋 登勢

寺田屋 登勢

1829~77。大津の米問屋に生まれ、伏見の船宿・寺田屋6代目伊助に嫁いだ。伊助は覇気がない上に名うての放蕩者。伏見でも5本の指に入る大きな船宿なので、20人以上の奉公人、口うるさい姑、小姑を抱え、そのすべてがお登勢一人の手に委ねられた。お登勢はたちまち手腕を発揮し、見事に女将としての役割を果たす。その一方で情に厚く人の世話をすることが好きで、居候や食客を置き、さらに捨て子の世話までした。特に勤皇の志士たちを援助し、龍馬はお登勢を京都の「おかあ」と呼び、慕っていた。享年49歳。

徳川 慶喜

徳川 慶喜

1837~1913。水戸家・徳川斉昭の7男として生まれた。後に一橋家に養子に入る。勅許を得ずに日米修好通商条約を締結した大老・井伊直弼を糾弾したため、安政の大獄で隠居謹慎となった。桜田門外の変後、復帰し、慶応2年(1866)、14代将軍・家茂(いえもち)が亡くなると15代将軍になる。その翌年10月、二条城で大政奉還を行うが、12月の「王政復古の大号令」で辞官・納地を迫られ、翌年正月、戊辰戦争が勃発。鳥羽伏見の戦いで敗れると江戸城へ戻り、官軍に恭順して水戸へ行き、後に駿府に移転。その後は趣味に生きた。

中岡 慎太郎

中岡 慎太郎

1838~67。土佐国安芸郡柏木村に庄屋の子として生まれる。武市(たけち)瑞山の道場に入門。土佐勤王党に参加するも脱藩し、蛤御門の変に参戦した。何かと目立つのは龍馬だが、慎太郎は地道な活動を展開した。特に薩長同盟においては、西郷隆盛、高杉晋作らに不和の無意味と提携の重要性を説いて回った。和宮降嫁をめぐって犬猿の仲だった岩倉具視(ともみ)と三条実美(さねとみ)を和解させ、また、公武合体を藩論とする土佐藩の目を討幕へと向けさせたのも慎太郎である。陸兵部隊・陸援隊も創設し、常に先を見つめて行動していた。近江屋で暗殺される。享年30歳。

楢崎 龍

楢崎 龍

1841~1906。勤皇医師・楢崎将作の娘。将作が安政の大獄で病死し、一家は離散。母と妹は志士たちの隠れ家・大仏長屋で飯炊女をし、お龍は旅館・扇岩で働く。このころ、だまされて遊廓に売られた妹を助けに、金を作って単身で悪党のところへ乗り込み、大喧嘩をして一歩も引かず妹を取り返した。龍馬との出会いは定かではないが、龍馬はお龍を寺田屋のお登勢(とせ)に預けた。寺田屋での龍馬襲撃事件ではお龍の機転が龍馬を救った。事件のあと二人は祝言を挙げ、新婚旅行へ出掛けるが結婚生活はわずか2年弱で終わる。横須賀で再婚するが不遇のうちに亡くなる。享年66歳。

土方 歳三

土方 歳三

1835~69。多摩の農家の4男。呉服屋に奉公に出されるが、トラブルを起こしては戻されていた。土方は商人には興味はなく「武士になること」を夢見ていた。そんな土方は「江戸の浪士組募集」に飛びつく。土方は新選組副長として近藤を補佐し、背いた者は切腹して償うという鉄の規律で隊を支配する。しかし、鳥羽伏見の戦いで敗走、千葉の流山では近藤も失い、土方は残党を率いて宇都宮、会津、そして箱館へと転戦する。その姿は死に場所を探しているようだった。明治2年(1869)、箱館・五稜郭で戦死する。享年35歳だった。

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