- 京都市下京区油小路通塩小路下ル松明町
新選組の3番目の屯所。新選組の乱暴狼藉に耐えかねた西本願寺が提供した。ここに移ったのが慶応3年(1867)6月15日。現在のリーガロイヤルホテル京都の辺りといわれ、ホテルの前には碑も立つ。3000坪の敷地に表門、高塀、玄関、使者の間、近藤・土方の各部屋、幹部の部屋、平隊士の部屋、客舎、馬屋、物見櫓、仲間・小者部屋があり、さらに浴場、獄舎まで備えていた。田舎侍たちが夢見た、まさに御殿のような屯所。しかし、ここでの暮らしはわずか半年あまりで終わる。鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は大敗し、新選組にも暗雲が立ち込めていく。
- 京都市下京区西新屋敷揚屋町
寛永18年(1641)、島原で創業の揚屋。幕末には尊攘派の志士が密議の場所として使い、角屋の前には「久坂玄瑞の密議の角屋」という石碑が立つ。豪商からの軍用金受け渡しの場としても使われたようだ。久坂は吉田松陰門下で俊才として知られた長州藩士。松陰の妹・文と結婚している。蛤御門の変で自決。24歳だった。新選組もここで遊び、酒に酔った芹沢鴨が暴れたことでも有名。今も芹沢がつけたといわれる刀傷が残る。暗殺された夜もここ、角屋で飲んでいた。現在は「角屋もてなしの文化美術館」として公開されている。
- 京都市東山区泉涌寺山内町
「御寺(みてら)」と呼ばれる皇室にゆかりの深い寺。仁治3年(1242)、四条天皇が没し寺内に御陵が造られて以来、皇室の香華院(菩提所)となり、山陵が境内に設けられて「月輪陵(つきのわのみささぎ)」と名付けられた。幕末の天皇、孝明天皇もここに眠る。動乱の真っただ中を生き、外国人を嫌い、妹・和宮を将軍・家茂(いえもち)に嫁がせて幕府と公武合体策を図ったが、政局はますます混迷の度を深めていく。在位21年の間に「弘化」「嘉永」「安政」「万延」「文久」「元治」「慶応」と年号が改元されたことでも時代の激変ぶりがわかる。慶応2年(1866)暮れ、痘瘡にかかり崩御。その死には今も暗殺説がつきまとう。
- 京都市南区九条町
真言宗総本山、教王護国寺。世界文化遺産。延暦13年(794)、平安遷都の際、羅城門の東に開創して西寺(現在は廃寺)とともに平安京の官寺だった。弘仁14年(823)、嵯峨天皇が弘法大師空海に下賜し、真言密教の道場となり、その後盛衰を繰り返す。五重塔は寛永20年(1643)上棟。徳川家光により造営された。高さ約55メートルは現存する木造の塔の中では最も高い。現在は5代目。幕末、鳥羽伏見の戦いの時は、薩摩藩が東寺に本営を置いた。総大将である西郷隆盛は、この五重塔の上から望遠鏡で戦況を眺め指令を出していたという。
- 京都市下京区油小路通旧花屋町下ル仏具屋町
坂本龍馬と中岡慎太郎が近江屋で暗殺されてから3週間後、下京区の旅館・天満屋で「天満屋騒動」が起きる。犯人は新選組と目星を付けた海援隊・陸援隊と十津川郷士が、紀州藩公用人・三浦久太郎を襲撃した。紀州藩船と海援隊のいろは丸衝突事件で、龍馬は紀州藩から莫大な賠償金を取っている。この件で三浦が龍馬に恨みを抱き、新選組を使って暗殺させたとうわさされていた。三浦は、新選組の護衛とともに襲われたが無事に逃げおおせ、新選組は多くの犠牲者を出した。この事件で討ち死にした十津川郷士・中井正五郎(庄五郎)の碑が立つ。