酒蔵の町・伏見は水運で繁栄した。京と大坂を結ぶ港としてにぎわい、大坂から伏見に三十石舟で着いた旅人は京町通(伏見街道)を歩いて京都の市中に入った。港の中心だった京橋付近には本陣が4軒、脇本陣2軒、船宿や旅籠が39軒あったという。
寺田屋は伏見でも五本の指に入る大きな船宿。女将の登勢は放蕩者の主人が亡くなった後も女手ひとつで切り盛りして宿を繁盛させた。情に厚い登勢は捨て子を育て、居候や食客の世話までし、特に志士たちを援助した。龍馬も「おかあ」と呼んで慕っていた。寺田屋から徒歩15分ほどの、松林院墓地に眠っている。
慶応4年(1868)1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦いで伏見は戦場になった。下鳥羽・小枝橋の上でにらみ合う旧幕府軍と薩長軍(新政府軍)。現在の鳥羽離宮跡公園の丘の上に設置されていた薩摩の大砲が火を吹き、決戦の火蓋が切られた。数で勝る旧幕軍だが、薩長の近代兵器の前では非力だった。伏見では、新選組が伏見奉行所に立てこもって戦ったが惨敗。
伏見の料亭・魚三楼の玄関脇の出格子には、今も戦いの弾痕が残っている。
- 京都市伏見区南浜町
文久2年(1862)、薩摩の島津久光が派遣した鎮撫隊が急進派志士の説得に失敗、薩摩藩の内紛の場となった。このとき上意討ちに遭った志士9人が大黒寺(薩摩寺)に眠る。慶応2年1月24日未明、龍馬が伏見奉行所の捕吏に襲撃されたのも寺田屋である。