二条城を中心とした堀川通付近は、京都所司代、東西の奉行所、各藩邸などが集まる官庁街だった。
六角獄舎は六角通にあった牢屋敷。禁門の変の大火が獄舎にも及びそうになり、過激な尊攘派の囚人が野に出ることを恐れた町奉行は、未決囚を含めた37人を斬罪してしまう。その中には筑前の勤皇志士・平野国臣もいた。
武信稲荷神社は六角獄舎の北側にある。境内に市の天然記念物である樹齢850年の榎(エノキ)があり、ここで龍馬とお龍が逢っていたとの伝説がある。
壬生は、志士たちと激しく対立し彼ら同様時代の渦に巻き込まれていった若者たち、新選組の本拠地だった。文久3年(1863)2月に入洛したのち2年間、八木邸、前川邸に分宿し、壬生屯所とした。芹沢鴨の殺害をはじめ、ここで多くの血なまぐさい事件が起きた。やがて、敗走する彼らの運命を思うと、胸に迫るものがある。
- 京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
慶応3年(1867)10月14日、二条城二の丸御殿の大広間で、15代将軍・慶喜が大政奉還を奏上した。二条城は家康が造営した徳川の城。狩野(かのう)派による障壁画など、桃山美術の粋を集める。
- 京都市中京区押小路通神泉苑西入職司町
京都町奉行所は、奉行の下に与力、同心を配し、京都の市政一般―行政、司法、警察全般を担当し、畿内幕府領の租税の徴収や寺社領の訴訟処理も行った幕府の役所。町奉行所は東西に分けられ、隔月交代で任務を担当した。東西それぞれ、与力20騎、同心50人と小規模だったため、各町の自治組織を利用して任務にあたった。東町奉行所跡碑は地下鉄東西線・二条駅の近くにあり、もとは京都代官奉行・五味備前守屋敷だったという。