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三条~四条界わい

三条~四条界わい

条通から四条通の河原町、木屋町界わいは京都の繁華街だ。流行のファッションに身を包んだ若者たちが行き交い、飲食店やブティックの間に老舗も並ぶ。
幕末、地方から京を目指して来た血気盛んな若き志士たちがこの界わいに住んだ。現在の京都ホテルオークラから御池通の南側辺りまでの広大な敷地が長州屋敷。その南には土佐藩邸もあった。脱藩を赦免された龍馬が「御叱り」として7日間謹慎していた屋敷だ。当時、高瀬川は京と伏見、大坂をつなぐ重要な水運ルート。深夜の入洛や逃亡のためにも高瀬川沿いに住んだのではないかと思われる。天誅組の吉村寅太郎の寓居と土佐勤王党の武市瑞山の寓居は隣り合ってある。石碑をひとつひとつ見ながら歩くと、幕末の人間ドラマが浮かび上がってくる。一方で佐久間象山、大村益次郎など「遭難の碑」も多い。池田屋もこの界わいにあった。
龍馬は酢屋に下宿し海援隊の京都屯所も置いていたが、暗殺された時は河原町通蛸薬師下ルの近江屋にいた。とても寒い日だったという。現在は石碑が立つのみ。

全体地図
  1. 地下鉄東西線
    「京都市役所前」1番出口
  2. 約4分
  3. 池田屋騒動之址碑
  4. 約7分
  5. 坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地碑(近江屋跡)
  6. 約4分
  7. 中岡慎太郎萬居之地碑
  8. 約1分
  9. 古高俊太郎邸址碑
  10. 約4分
  11. 土佐藩邸跡碑
  12. 約8分
  13. 武市瑞山先生寓居之跡碑
  14. 約5分
  15. 長州屋敷跡碑
  16. 約1分
  17. 地下鉄東西線
    「京都市役所前」3番出口

池田屋騒動之址碑

池田屋騒動之址碑
  • 京都市中京区三条通木屋町西入中島町

古高(ふるたか)俊太郎の捕縛で発覚したクーデター計画を阻止すべく、元治元年(1864)6月5日、新選組が池田屋で密談していた志士を急襲する。突入した新選組は近藤勇、沖田総司ら4人。志士たちは20人以上だったが、9人の死者を出し大多数が捕縛された。龍馬と仲の良かった望月亀弥太も命を落とした。

坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地碑(近江屋跡)

坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地碑(近江屋跡)
  • 京都市中京区河原町通蛸薬師下ル塩屋町

慶応3年(1867)11月15日夜半、土佐藩御用達の醤油商・近江屋にかくまわれていた龍馬と中岡慎太郎を凶刃が襲う。暗殺者は諸説あるが、京都見廻組説が有力とされている。

中岡慎太郎寓居之地碑

中岡慎太郎寓居之地碑
  • 京都市中京区河原町通四条上ル鍋屋町

中岡は坂本龍馬の盟友。華やかな龍馬の陰に隠れがちだが、実は龍馬以上に目覚ましい活躍をし、陸援隊の隊長を務めた。この地は、脱藩後の中岡が身を寄せた、土佐藩御用達書林・菊屋(鹿野安兵衛宅)跡にあたる。菊屋の息子・峯吉は、龍馬と中岡にかわいがられ、二人が近江屋で暗殺された夜、龍馬に軍鶏を買ってくるよう言われた。軍鶏を提げて帰って来た峯吉は、事件の第一発見者となった。現在はあぶらとり紙を販売する店になっている。

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古高俊太郎邸址碑

古高俊太郎邸址碑
  • 京都市中京区木屋町通四条上ル一筋目西入真町

枡屋こと湯浅喜右衛門として四条小橋で馬具商(薪炭商とも)を営んでいたが、その正体は近江の勤皇の志士・古高俊太郎だった。八月十八日の政変で京を追われた尊攘派の志士たちは、地下活動を続けていた。古高は表向きは商人として、彼らを支援していたが目を付けられて新選組に捕縛される。古高は壬生屯所に連行され、土方歳三の拷問を受け、池田屋事件に繋がっていく。枡屋があった古高の寓居は、現在は「志る幸」という料理屋になっている。

土佐藩邸跡碑

土佐藩邸跡碑
  • 京都市中京区木屋町通蛸薬師下ル下樵木町

土佐藩邸は高瀬川に面して旧立誠小学校一帯を占めていた。近くにある土佐稲荷は藩邸内にあったもので、境内には小さな龍馬像も立つ。

武市瑞山先生寓居之跡碑

武市瑞山先生寓居之跡碑
  • 京都市中京区木屋町姉小路東側上大阪町

武市瑞山(半平太)は土佐勤王党を結成した人物。文久2年(1862)、前藩主・山内容堂に従って上洛し、この場所に住んで応接役として各藩の藩士と交わった。翌年には京都留守居役となるが、参政・吉田東洋の暗殺が勤王党の仕業とされ党への弾圧が厳しさを増していく。ついに瑞山は土佐に呼び戻され、切腹を申し付けられる。瑞山は坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎とともに土佐四天王の一人。土佐藩邸が近かったことから、彼らの寓居は木屋町界わいに集中してあった。

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長州屋敷跡碑

長州屋敷跡碑
  • 京都市中京区御池通河原町東入一之船入町

江戸時代初期は、高瀬川一之舟入の南側から木屋町に至る広大な屋敷で、幕末には尊攘派の拠点になっていた。蛤御門の変で焼失。現在は京都ホテルオークラ前に石碑が立つ。同ホテルの西側には桂小五郎(木戸孝允(たかよし))像がある。桂小五郎は長州藩医・和田昌景の長男。後に上士・桂九郎兵衛の養子となる。吉田松陰に師事し、江戸に遊学、練兵館塾頭を務める。京都留守居役として幅広い人脈を生かし、長州藩の孤立を回避すべく活動する。慶応2年(1866)、薩長同盟を締結する。西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれる。
また、このあたりには幾松寓居跡がある。幾松は若狭小浜の生まれ。8歳で京都に出て、後に花街・三本木の芸妓になった。京都が激動の歴史へと向かう文久元年(1861)のころ、18歳の幾松は28歳の桂小五郎と出会い、恋に落ちたという。新選組に命を狙われながらも恋を成就させ、明治維新後、幾松は山口藩士・岡部富太郎の養女となり「松子」と改名。正式に木戸孝允(たかよし)(桂小五郎)の妻となった。このあたりは木戸松子(幾松)の寓居以前は長州藩控屋敷だった。

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