尊皇思想の聖地・京都御所を有する京都御苑の森は、市街地の中心部に位置し、市民の憩いの場所になっている。現在の穏やかな風景からは想像できないが、幕末、ここは血塗られた戦闘の舞台になった。
堺町御門は丸太町通に面してある御苑の南側の門の一つ。長州藩はこの門の警護にあたっていたが、薩摩と会津によるクーデター「八月十八日の政変」でその任を解かれ、政治の表舞台・京都から姿を消すことになる。この門を挟んで東側に鷹司邸、西側に九条邸が立っていた。池田屋事件で藩士を斬られた長州は、禁門の変で失地回復を目指す。
元治元年(1864)7月の禁門の変は「蛤御門の変」とも呼ばれ、この門の付近は激戦地となり現在も当時の弾痕が残る。門を入った正面にある樹齢300年の椋(ムク)の木のそばで、長州の来島又兵衛は会津兵に狙撃され自害した。鷹司邸には、久坂玄瑞率いる部隊が立てこもったが屋敷に火を放たれ、久坂、寺島忠三郎ら長州藩士は自害して果てた。「どんどん焼け」といわれた禁門の変の戦火は京の町を3日間にわたって焼いた。
椋の木の東には京都御所の正門・建礼門が立っている。薩長同盟締結の舞台となった薩摩藩邸は「二本松藩邸」といわれ、同志社大学の西側一帯にあった。
- 京都市上京区京都御苑
京都御苑九門の一つで御苑の南側、丸太町通に面している。この門を挟んで東側に公家の鷹司邸、西側に九条邸が立っていた。文久3年(1863)、薩摩藩と会津藩により、尊攘派が一掃されるクーデター「八月十八日の政変」が起きる。これにより、長州藩は堺町御門警護の役を解任された。蛤御門の変では、長州の久坂玄瑞率いる山崎の部隊が堺町御門から攻め入り、鷹司邸に立てこもった。屋敷に火を放たれ、逃げ場を失った久坂、寺島忠三郎ら長州藩士は自害して果てた。