伊藤若冲と曽我蕭白

伊藤若冲と曽我蕭白
いとうじゃくちゅうとそがのしょうはく
「伊藤若冲(いとうじゃくちゅう、1716-1800)」は江戸時代の半ば、錦小路の青物問屋(八百屋)に生まれました。当初狩野派や琳派(りんぱ)に画技を学びますが、飽き足らず宋や元の絵を手本とします。父親が亡くなりますと四代目伊藤源左衛門を襲名し、店を継ぎますが、大好きな絵をあきらめることができず、40歳で家督を弟に譲って隠居し、画業に専念します。鶏や昆虫、野菜、魚介類など画材の対象は多岐に渡り、入念な写生をベースに独自の写生を試みています。「若冲」といえば「鶏」を連想しますが、この鶏の写生を本格的にしようとしたとき、若冲は自宅に鶏を数羽放し飼いにし、1年間は絵筆を取らずに、来る日も来る日もじっと見つめていたというエピソードが残っています。代表作には重文、鹿苑寺(ろくおんじ=金閣寺)大書院障壁画(承天閣美術館蔵)や釈迦三尊像(相国寺)、果蔬涅槃図(京都国立博物館蔵)などがあります。また石峰寺(せきほうじ)境内に残る石で造られた羅漢(らかん)像は、若冲が下絵を描き、石工たちが彫りあげたものです。奇想派と呼ばれる若冲ですが、同時代の「曽我蕭白(そがのしょうはく、1730-1781)」や「長澤蘆雪(ながさわろせつ、1754-1799)」も同じように奇想派と呼ばれます。