狩野山楽と海北友松

狩野山楽と海北友松
かのうさんらくとかいほうゆうしょう

「狩野山楽(かのうさんらく、1559-1635)」と「海北友松(かいほうゆうしょう)」。どちらも武士の血が流れています。山楽は木村重頼といい、少年時代は後に永徳(えいとく)の弟子となって、秀吉お抱えの絵師となります。伏見城の障壁画の多くはこの山楽が手がけています。しかし徳川の世となってから山楽は居場所をなくしますが、後に許され、狩野宗家の探幽(たんゆう)らと共に仕事を徳川家から与えられることもありました。しかし山楽は養子の山雪(さんせつ)と共に京に留まり、後に「京狩野」と呼ばれるようになり、主に寺院からの仕事を請け負うようになります。また海北友松は元、浅井家の重臣筋の生まれで、浅井家滅亡の後は出家して、少年時代を東福寺で過ごし、後に画家として大成し、建仁寺や妙心寺など禅宗寺院に数多くの作品を残しています。また友松は明智光秀(みつひで)の重臣、斎藤利三と親友で、山崎の合戦後はその娘「ふく」を引き取り、親代りに面倒を見たそうです。その「ふく」こそが、後の「春日局(かすがのつぼね)」です。

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