狩野元信

狩野元信
かのうもとのぶ

「狩野元信(かのうもとのぶ)」は狩野派の祖である父、正信(まさのぶ)から画業と一派を継ぎ、画檀の基礎固めに奔走していたようです。もともと狩野派は武士階級の出身であり、如拙(じょせつ)・周文(しゅうぶん)ら画僧とは一線を画していたようで、折しも時は戦国時代、足利将軍家の持つアカデミー機構も崩れ始め、時代はまさに大きなうねりを見せ始めていました。そんな新時代に対応すべく、いち早く来るべき新興階級に対応しようと、雄渾な水墨画のタッチに伝統的な大和絵風の柔らかみを調和させた、独自の画風を確立していきました。うわさでは土佐光信(とさみつのぶ)の娘と縁組みしてまで、その画風の確立を目指したとか。その後は幕府だけでなく、土佐派が占めていた宮廷の仕事にも進出し、町衆の要望にも応えていました。当然、仕事量が増えますが、職業技能集団化することにより、多くの注文に応えていったのです。妙心寺の塔頭、霊雲院は「元信寺」と言われるほど、元信の水墨画が多く残されています。

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