周文と雪舟

周文と雪舟
しゅうぶんとせっしゅう
周文(しゅうぶん)が相国寺の「都寺(つうす、都守)」という会社でいえば経理課を担当していたころ、若い雪舟(せっしゅう)が相国寺に入ってきました。周文は如拙(じょせつ)から引き継いだ室町幕府の御用絵師の仕事も続けながら、当時五山文学をリードしていた相国寺の中でも水墨画を教えるという、今でいう大学教授のような働きもしていたのです。世に周文様と呼ばれる画風も確立した周文でしたが、現在彼の真作と断定できるものはなく、全て伝、周文です。如拙の真作が3点伝わっているのとは対照的です。また周文から教えを受けた雪舟はやがて東福寺で修行をし、大先輩であった明兆(みんちょう)に私淑し、周防(すおう)に向います。「雲谷(うんこく)庵」という名のアトリエで独自の画風を求めていました。やがて48歳のときに明へ渡り、本場中国で水墨画を学び、日本に帰ってきてからは美濃や周防で画業に専念します。特に晩年は周防の戦国大名大内氏の庇護(ひご)を受けながらも旅にでることもありました。70歳を過ぎてからの旅で、天橋立に立ち寄り、その直後に国宝「天橋立図」(京都国立博物館蔵)を残しています。この水墨画の大作は実際に絵のように見渡すことが不可能なパノラマ的な鳥瞰図(ちょうかんず)であり、旅を続けてきた雪舟の自由な心が描かせた、そんな風にも考えられます。