小堀遠州

小堀遠州
こぼりえんしゅう

武将、作庭家、茶人の三つの顔を持つ小堀遠州(こぼりえんしゅう、1579-1647)は本名「小堀政一」。その役職が「遠江守」であったことから「遠州」と呼ばれるようになりました。北近江の出身で、父は浅井長政に仕えていましたが、遠州が生まれたころには、浅井家は織田信長に滅ぼされ、北近江は羽柴秀吉が治めていたころでした。遠州は秀吉の弟、秀長に仕え、その領地であった大和郡山で近くの堺の商人・茶人とも交流があり、千利休と出会ったのもこのころとされています。その後秀吉のいる伏見城に出仕し、そこで古田織部(ふるたおりべ)に茶の湯の手ほどきを受けました。秀吉が亡くなると、今度は徳川家康に仕えます。

関ヶ原の戦い以降、備中・駿府・北近江・伏見と各地を転々とし、それぞれの地で作事奉行として建築や造園にその手腕を発揮します。仙洞(せんとう)御所など宮中や駿府城・名古屋城など、宮中・幕府の大きな仕事を任されていた大手ゼネコン的な存在だったのでしょう。二条城二の丸庭園や南禅寺金地院庭園も遠州の作とされています。また当時から作庭の神様的な存在でしたので、各地で遠州の造った庭という伝説が多く生まれました。全国を渡り歩いた遠州だけに、造園に携わった可能性もありますが、むしろそれは庭園史に残る遠州の存在の大きさを表していると考えたいですね。

伏見奉行となったころから、ようやく好きな茶の湯に時間を割く余裕もでき、遠州の代名詞ともいわれる「きれいさび」を極めていきました。これは和歌などの王朝文化の香りを茶の湯に取り込むことによって、雅な世界へといざなうかのような精神です。茶道具にも和歌に因んだ銘が多いことからもわかります。また、茶室の窓は古田織部(ふるたおりべ)の好みよりももっと増やし、広さも大きい方が良いとの考えから、草庵風茶室よりも、書院茶室主体へと移行していきました。南禅寺金地院の八窓席や大徳寺の孤篷庵も遠州が手がけました茶席です。利休の「わび」、遠州の「きれいさび」。どちらも一流の茶人たちが考案した素晴らしい境地といえるでしょう。

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