三千家(さんせんけ)

三千家(さんせんけ)
さんせんけ(さんせんけ)
天正20年(1592)の「千利休(宗易)」の賜死事件以来、その一族は不遇の時代を送ります。利休の養子である「少庵(しょうあん)」は「蒲生氏郷(がもううじさと)」によって庇護(ひご)されました。豊臣家が滅び、徳川の世になって、再び活躍の場が出てきました。利休の孫、そして少庵の子「宗旦(そうたん)」の子どもたちがそれぞれ独立して、三千家(さんせんけ)の基礎を固めました。次男「一翁宗守(いちおうそうしゅ)」は武者小路通に面して茶室「官休庵(かんきゅうあん)」を建てたことから「武者小路千家」。三男「江岺宗左(こうしんそうさ)」は寺之内通に面したところに茶室「不審菴(ふしんあん)」を建てたことから「表千家」、その奥に、四男「仙叟宗室(せんそうそうしつ)」が「今日庵(こんにちあん)」を建てたことから「裏千家」と呼ばれるようになりました。これらをまとめて「三千家」と呼びます。また三千家はそれぞれ、徳川幕藩体制において、大きな力を持っていた諸大名のもとへ「茶道頭(さどうがしら)」として指南に出向きます。「武者小路千家」は讃岐の「松平家」へ、「表千家」は紀州「徳川家」へ、「裏千家」は加賀「前田家」へといった具合でした。