いけばなの歴史②

いけばなの歴史②
いけばなのれきし②

いけばなの歴史は、花に形と思想が備わって始まりました。しかし、形といっても真(しん=中心となる枝で、元木とも呼ばれる)と下草で構成される「たて花」は、座敷の装飾の域を出ませんでした。それを芸の道にまで高めて「立花(りっか)」の様式を大成したのが池坊専好(せんこう)(二代目)という人物です。時の天皇、後水尾(ごみずのお)天皇は、この立花をいたく気に入られ、度々宮中で立花会を開催し、楽しみました。専好はこうした立花会で花の指導に当たりました。立花は公家、武家、富裕な町人の間にまで広まり、大変な人気だったといいます。江戸時代中期になると、簡略ないけばな「生花(しょうか)」の様式が整います。そして、そのシンプルで軽快な形を持つ生花は次第にいけばなの主流となっていきます。今日の生花を中心に活動している代表的な流派のいくつかは、このころに生まれています。明治に入ると、住環境の変化、西洋文化の流入に伴い、「投入(なげいれ)・盛花(もりばな)」が生まれました。また、このころ、いけばなは女学校の教課の一つに加えられました。さらに昭和に入ると「自由花」が生まれます。自由な発想、自由な技法によるいけばなは、造形作品としての表現の幅を広げ、日本だけでなく世界の人々にまで愛好されるようになりました。

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