「山科義士祭」
 
勇壮な「山科義士祭」
の行列
赤穂藩主・浅野長矩(ながのり)の無念をはらそうと、家老・大石良雄(よしお)(内蔵助(くらのすけ))が47人の義士隊を組織して討入りを果たしました。「忠臣蔵」で有名な大石良雄は、討入りまでの1年有余、山科の地に住居を構えていました。そのため山科には、大石良雄旧居跡や義士の遺髪を供養している寺院・瑞光院(ずいこういん)など、赤穂義士にまつわる数々の史跡が今日に伝わっています。
 こうした故事にちなんで、毎年12月14日、山科では「山科義士祭」が開催されています。これは山科区をあげて行われる祭で、赤穂義士そのままの装束に身を包んだ義士隊、子供義士隊、婦人舞踏列など総勢約250人の行列が、山科の街を勇壮華麗に練り歩きます。行列は毘沙門堂瑞光院から大石神社まで街を縦断しますが、訪ねてみれば、各所であげられる「かちどきの声」が山科の空に響きわたるのを聞くことができます。
 「天智天皇と中臣鎌足」
 
天智天皇陵
天智天皇陵

飛鳥時代、中大兄皇子(のちの天智天皇)は、中臣鎌足と協力して蘇我氏を滅ぼし、「大化の改新」を行ないました。この史実はよく知られていますが、2人が山科にゆかりの深い人物であったことは、実はあまり知られていません。

山科に邸宅を建てた中臣鎌足

 中臣鎌足は改新に力を尽くし、朝廷における最高の実力者となりました。そこで、琵琶湖に近く、当時から交通の要衝とされていた山科に「陶原の館(すえはらのやかた)」と呼ばれる邸宅を建てたと伝えられています。邸宅には山階精舎(やましなのしょうじゃ)と呼ばれるお堂がつくられ、ここに釈迦像が安置されて山階寺とも呼ばれるようになりましたが、のちに奈良に移転して現在の興福寺(こうふくじ)となりました。山階寺が山科のどこにあったかは、現在はっきりとはわかっていません。山階寺の跡と伝わる大宅廃寺(おおやけはいじ)との関連も解明されていませんが、今後の調査に期待されるところです。

天智天皇と山科

日時計碑
日時計碑  

 天智天皇は667年、飛鳥から近江大津(おおみおおつ)に都を移しましたが、これは、山科との位置関係を重視した中臣鎌足の勧めによるものと考えられます。また、鎌足との関係もあってか、「日本書紀」には、天智天皇が山科で遊猟したという記録が残っています。天智天皇陵が山科につくられたのは、天皇自身の遺志によるものとされることから、よほど山科の地を愛していたことが想像されます。三条通りに面した天智天皇陵の参道入り口近くには、日時計碑が建てられています。これは昭和13年にできたものですが、天皇陵の前にこうしたモニュメントがつくられたのは、天智天皇の時代に水時計がつくられたという記録に関連させたものでしょう。
 こうした史実から、山科は飛鳥時代の昔から皇室と深い関わりを持っていたことがわかります。今後ますます調査が進み、新たな史実が発見されるのが本当に楽しみです。


 「山科本願寺の半世紀」
 
證如上人墓
 證如(しょうにょ)上人墓
 浄土真宗の中興の祖である蓮如(れんにょ)は、北陸など各地で布教活動を行なったのち、1478年に山科・西野の土地を寄進され、本願寺の再建を図りました。その後1480年に御影堂、翌81年には阿弥陀堂が竣工。さらに、寺の周囲、南北1.5キロメートル、東西1キロメートルの範囲に土塁(土居)と濠をめぐらせて城郭をつくり、広大な山科本願寺・寺内町(じないまち)を形成しました。応仁の乱で京の街がことごとく焼け野原になったあとだけに、その隆盛は当時の人々に強い印象を与えたことでしょう。
実如上人墓
 実如上人墓
蓮如の死後、跡を継いだ蓮如の子・実如(じつにょ)はその繁栄を維持したのですが、実如の孫にあたる證如(しょうにょ)の代になって細川晴元(はるもと)、法華宗徒らと争った結果、1532年、ついに 山科本願寺は焼き払われ、53年間の短い歴史を終えました。 中央公園やその南に土塁(土居)や濠の一部が残り、山科本願寺の名残を見ることができます。なお江戸時代、そのゆかりの地に東・西本願寺の別院が建立されました。
 レッツ・トライ 山科
 

歴史上重要な古墳や史跡が数多く存在する山科ですが、もちろんそればかりではありません。ユニークな資料館や観光農園、焼物を体験できる施設など、山科には好奇心をそそるおすすめスポットが目白押しです。

山科にしかないユニーク資料館

京都お箸の文化資料館
京都お箸の文化資料館
吉野杉でつくられた大きな割り箸

 長さ2メートルのジャンボ割箸が飾られている「京都お箸の文化資料館」。このユニークな資料館には、日本各地の箸を始め、中国、ベトナムなど世界の箸が展示されています。見るだけでなく、予約をすれば無料で箸づくりを体験できるほか、10名以上の団体予約なら、食文化等に造詣の深い館長の楽しい話がうかがえます。
 小山小川町(こやまおがわちょう)にある「京の田舎民具資料館」も、たいへん見応えのあるおもしろい資料館です。江戸時代に使われていた農機具や台所用品、屏風、風呂桶など、少し前の時代の人々の生活をうかがい知ることのできる、さまざまな民具が所狭しと並んでいます。また、小川町には二九の雄松(にのこうのおんまつ)と呼ばれる老木があり、毎年2月9日、藁でつくった大蛇をここに奉納する「二九(にのこう)」という山の神を祀る伝統行事が行われています。京都市の無形民俗文化財(登録)となっているものです。これは、牛尾観音(うしおかんのん)に参詣する人々を襲った大蛇を、地元の武士が退治したのち、祟りを恐れて祀ったのが起源と伝えられています。現在は牛尾観音に続く音羽川沿いの山道がハイキングコースとなっていて、素晴らしい眺望が人気を集めています。「懺悔の生活」で知られる一燈園(いっとうえん)創始者・西田天香の足跡を紹介しているのが、資料館「香倉院(こうそういん)」。天香ゆかりの遺品、親交のあった著名人の書簡などを展示しています。

農園から陶芸まで

勧修寺観光農園
勧修寺観光農園
親子で楽しくブドウ狩り

 勧修寺(かじゅうじ)の西、名神高速道路が通る山あいに、「勧修寺(かんしゅうじ)観光農園」があります。春はイチゴ、夏はブドウ、そして秋はイモ掘りが体験でき、家族や団体でのレジャーに最適です。
 陶芸ファンのみならず、全国的にもその名を知られる京の伝統工芸・清水焼。山科には、清水焼の窯元が集まった「清水焼団地」があります。ここでは、清水焼団地協同組合の運営する展示場で作品を展示即売しているほか、組合に問い合わせれば、絵付けや土ひねりが体験できる窯元の案内もしてもらえるので、チャレンジしてみましょう。

 
 「征夷大将軍坂上田村麻呂」
 
坂上田村麻呂の墓
周囲が公園になっている
坂上田村麻呂の墓
 平安時代初期の武将に、坂上田村麻呂という人物がいました。軍人として有能で、当時の日本では大きな問題となっていた蝦夷地を平定するため征夷大将軍に任命され、これを治めてたいへんな功績をあげました。 晩年は粟田(あわた)(現在の東山区粟田口)の邸宅に住んでいましたが、この間田村麻呂は、 清水寺を創建したと伝えられます。811年に坂上田村麻呂が没したとき、ときの嵯峨天皇はその死を惜しみ、山科は栗栖野(くりすの)に土地を与えて墓所をつくらせました。田村麻呂の遺骸には甲冑を着せ、弓矢などを持たせて武装した姿で葬られたといいます。これは、華々しい武勲を持つ坂上田村麻呂をして、都を鎮護させようとしたのではないでしょうか。 墓所は平安奠都(てんと)1100年紀念祭の折り修復され、傍らには顕彰碑が建てられています。

   
 「大石順教尼の思い出」
 
順教尼とその弟子の作品が展示されています。
 勧修寺からほど近い仏光院(ぶっこういん)の境内に足を踏み入れると、本堂横の建物に展示ウィンドウが設けられており、色紙などに描かれた味わい深い水墨画の数々を見ることができます。これらは、明治、大正、昭和にかけて波乱の人生を送った大石順教(おおいしじゅんきょう)尼とその弟子の作品で、仏光院は順教尼が建立した寺院です。大石順教尼は、本名を大石よねといい、もとは大阪堀江の名妓でした。ところが、明治38年、養父中川萬次郎(まんじろう)が一家6人を斬り殺す事件を起こし、順教尼は両腕を切り落とされてしまいました。その後順教尼は、カナリアがくちばしだけで雛を育てるのを見て、口に筆をくわえて書画を描くことに取り組み、やがては出家して仏道を志しました。
 昭和43年に他界するまで、大石順教尼は身体障害者のための福祉活動に身を捧げ、書画では日展に入選するという偉業を成し遂げました。慈母観音(じぼかんのん)と呼ばれ慕われた順教尼の生涯は、これからも語り継がれることでしょう。