「山科義士祭」 | |||||
こうした故事にちなんで、毎年12月14日、山科では「山科義士祭」が開催されています。これは山科区をあげて行われる祭で、赤穂義士そのままの装束に身を包んだ義士隊、子供義士隊、婦人舞踏列など総勢約250人の行列が、山科の街を勇壮華麗に練り歩きます。行列は毘沙門堂・瑞光院から大石神社まで街を縦断しますが、訪ねてみれば、各所であげられる「かちどきの声」が山科の空に響きわたるのを聞くことができます。 |
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「天智天皇と中臣鎌足」 | |||||
飛鳥時代、中大兄皇子(のちの天智天皇)は、中臣鎌足と協力して蘇我氏を滅ぼし、「大化の改新」を行ないました。この史実はよく知られていますが、2人が山科にゆかりの深い人物であったことは、実はあまり知られていません。 山科に邸宅を建てた中臣鎌足 中臣鎌足は改新に力を尽くし、朝廷における最高の実力者となりました。そこで、琵琶湖に近く、当時から交通の要衝とされていた山科に「陶原の館(すえはらのやかた)」と呼ばれる邸宅を建てたと伝えられています。邸宅には山階精舎(やましなのしょうじゃ)と呼ばれるお堂がつくられ、ここに釈迦像が安置されて山階寺とも呼ばれるようになりましたが、のちに奈良に移転して現在の興福寺(こうふくじ)となりました。山階寺が山科のどこにあったかは、現在はっきりとはわかっていません。山階寺の跡と伝わる大宅廃寺(おおやけはいじ)との関連も解明されていませんが、今後の調査に期待されるところです。 天智天皇と山科
天智天皇は667年、飛鳥から近江大津(おおみおおつ)に都を移しましたが、これは、山科との位置関係を重視した中臣鎌足の勧めによるものと考えられます。また、鎌足との関係もあってか、「日本書紀」には、天智天皇が山科で遊猟したという記録が残っています。天智天皇陵が山科につくられたのは、天皇自身の遺志によるものとされることから、よほど山科の地を愛していたことが想像されます。三条通りに面した天智天皇陵の参道入り口近くには、日時計碑が建てられています。これは昭和13年にできたものですが、天皇陵の前にこうしたモニュメントがつくられたのは、天智天皇の時代に水時計がつくられたという記録に関連させたものでしょう。
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「山科本願寺の半世紀」 | |||||
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レッツ・トライ 山科 | |||||
歴史上重要な古墳や史跡が数多く存在する山科ですが、もちろんそればかりではありません。ユニークな資料館や観光農園、焼物を体験できる施設など、山科には好奇心をそそるおすすめスポットが目白押しです。 山科にしかないユニーク資料館
長さ2メートルのジャンボ割箸が飾られている「京都お箸の文化資料館」。このユニークな資料館には、日本各地の箸を始め、中国、ベトナムなど世界の箸が展示されています。見るだけでなく、予約をすれば無料で箸づくりを体験できるほか、10名以上の団体予約なら、食文化等に造詣の深い館長の楽しい話がうかがえます。 農園から陶芸まで
勧修寺(かじゅうじ)の西、名神高速道路が通る山あいに、「勧修寺(かんしゅうじ)観光農園」があります。春はイチゴ、夏はブドウ、そして秋はイモ掘りが体験でき、家族や団体でのレジャーに最適です。 |
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「征夷大将軍坂上田村麻呂」 | |||||
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「大石順教尼の思い出」 | |||||
昭和43年に他界するまで、大石順教尼は身体障害者のための福祉活動に身を捧げ、書画では日展に入選するという偉業を成し遂げました。慈母観音(じぼかんのん)と呼ばれ慕われた順教尼の生涯は、これからも語り継がれることでしょう。 |
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