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平安時代には、山科は山城国宇治郡山科郷と呼ばれていましたが、こうした地名ができるずっと以前の縄文・弥生時代から山科には人が住み、文化の足跡を残してきました。芝町遺跡、中臣遺跡などで発見された古代の土器や石器、あるいは奈良・平安時代の集落跡の調査結果からは、当時の人々のいきいきとした生活を感じ取ることができます。 また飛鳥時代、「大化の改新」で功績のあった中臣鎌足(なかとみのかまたり)が邸宅を建てて以来、山科は皇室や貴族とも深い関わりを持ちながら歴史を刻んできました。その昔、藤原高藤(たかふじ)という若者が山科に遊猟に来た際豪雨に見舞われ、宿を借りた宮道(みやじ)家で、宮道弥益(いやます)の娘・列子(れっし)と結ばれました。二人の間に生まれた胤子(いんし)はのちに宇多(うだ)天皇の女御となり、その子・醍醐(だいご)天皇は山科に多大な貢献をもたらしたのです。 そして、中世社会を動かした「宗教都市」山科本願寺(ほんがんじ)・寺内町(じないまち)が、蓮如(れんにょ)上人によってここに築かれたことも忘れることができません。また、「忠臣蔵」ゆかりの地としても知られています。 奈良街道と東海道が通じ、古来より交通の要衝として栄えた山科ですが、近代に入ってその重要性はますます高まりました。明治13年には京都・大津間に鉄道が開通しましたが、これは現在の東海道線のルートとは違い、追分(おいわけ)から勧修寺(かんしゅうじ)を経て、深草方面に抜けるもので、山科駅は勧修寺(かじゅうじ)の近くにありました。また、明治18年から5年の歳月をかけて建設された琵琶湖疏水は、京都市民の生活そのものを大きく変えた大事業で、山科においても船による運送の便が多大な経済効果をもたらしました。また近代の著名人に、山科にゆかりの深い人物も多く知られています。山科の竹鼻(たけはな)に約2年間住み、その体験を小説に著した志賀直哉。「懺悔の生活」を説き、一燈園(いっとうえん)を創始した西田天香(てんこう)。両腕を失いながらも仏道に身を投じ、障害者福祉に力を注いだ大石順教(じゅんきょう)尼等々。すべてを紹介するには、枚挙にいとまがありません。 昭和6年には、山科・醍醐が宇治郡から分かれ、山科は東山区に編入されました。独立して山科区となったのは昭和51年のことです。そして現在の山科は、豊かな歴史と文化を包含しつつ、さらなる躍動とふれあいを目指し、未来に向けて歩み続けています。 |
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