焼き物のまち東山散策
 
乾山記念碑(手前)・仁清記念碑(奥)
 五条通を鴨川から東に向かうと、陶器神社として知られる若宮八幡宮社辺りから、通りの両脇に清水焼の看板が見えてきます。五条坂、茶わん坂界わいは、常時数千点を展示する京都陶磁器会館をはじめとして、清水焼のお店が軒を並べ、焼き物好きにはたまらない空間です。
 清水焼は京焼を代表する陶磁器で、その起源はさだかではありませんが、江戸初期の文献に東山山麓の陶窯として粟田口焼などとともに、清水焼の名を見ることができます。粟田口焼は瀬戸の陶工三文字屋九右衛門(さんもんじやきゅうえもん)が寛永年間(1624〜44)に粟田口に窯を築いたことから始まります。清水焼もその影響を受けて発展しました。
京都青窯会会館
 その後元禄文化を背景に、御室仁和寺前に窯を築いた野々村仁清(にんせい)や、鳴滝に窯を築いた尾形乾山(けんざん)らによって、京焼でも色絵ものが焼かれるようになり、雅で独創的な構図や図案、色合いの清水焼が作られるようになりました。現在、清水寺境内には仁清、乾山の業績を偲んで「乾山記念碑」「仁清記念碑」が建っています。
 大正期に清水焼の生産地は南の日吉地区などにも移り、戦後は山科に清水焼団地がつくられました。智積院(ちしゃくいん)東側の坂道に「陶器塚」が建てられており、周辺での作陶の歴史を伝えています。
 京都第一赤十字病院の東方に、陶工たちの作品などを展示する京都青窯会(せいようかい)会館があります。会館では陶芸教室も行われており、興味のある人は予約して体験するのもよいでしょう。
 また大黒町(だいこくまち)通の五条から七条にかけては、かつて京扇子の扇骨を製造する人々が集住しており、「骨屋町(ほねやまち)通」と呼ばれるほどでした。今でも、扇骨を広げて乾かしている光景に出会うことがあります。
京都陶磁器会館 陶器塚


 石が語る「もうひとつの東山物語抄」
 

 東山は文化財・名園などの宝庫として名高く、さまざまに紹介されています。そんななかでつい見過ごしている石――石碑や石造物を南から北へめぐりながら、もうひとつの東山を探してみましょう。

  ●筆塚
  東福寺三門の南、正覚庵(しょうがくあん)は筆の寺として知られ、境内には筆塚があります。江戸後期に廃筆の労を感謝するために築かれたものですが、戦後新しい筆塚が建ち、毎年11月23日には、この塚の前で護摩木(ごまぎ)とともに筆を焼く「筆供養」が営まれます。
  ●清少納言歌碑
  清少納言が仕えた中宮定子(ていし)の陵に近い月輪に隠棲した、という伝承にちなんで建立された歌碑です。小倉百人一首に編まれた「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」が刻まれています。泉涌寺境内仏殿横の泉涌水脇にあります。
  ●「能」碑
  能楽の祖観阿弥・世阿弥父子が、足利三代将軍義満の前で初めて演じたのが、新熊野(いまくまの)神社での演能でした。それ以降、能は義満の庇護を受け発展していきました。碑はそれを記念して建立されたものです。
●たばこ製造工場発祥の地碑
   東大路通から渋谷(しぶたに)街道を西に入ると、赤煉瓦の建物が目に入ります。明治23年(1890)、村井吉兵衛が我が国初の洋風両切たばこ「サンライス」を製造・発売した工場の跡で、当時の建物の一部が現存しています。通りに面して「たばこ製造工場発祥の地」碑があります。
  ●阿弥陀経石(あみだきょうせき)
   表面に阿弥陀像を浮き彫りにし、背面には「仏説阿弥陀経」を刻みます。平重盛の発願で中国(宋)から建久9年(1198)に送られたものの、時すでに重盛この世になく平氏も没落後のため、京には運ばれず九州の宗像(むなかた)大社に置かれました。重盛ゆかりの正林寺(しょうりんじ)境内にあるこの経石は、後の延享3年(1746)に建立された二つの模刻のうちの一つです。
  ●石造手水鉢(せきぞうちょうずばち)
  五条坂にある若宮八幡宮社本殿内に、足利義満の寄進と伝わる石造手水鉢が残されています。花崗岩製八角形で、薄くなって判読は難しいものの、至徳3年(1386)と年号が刻まれています。
  ●円通橋(眼鏡橋)
   安政3年(1856)に架けられた石造りの橋です。大谷本廟(西大谷)の入口、東山五条に面したところにあります。池に映る姿から通称眼鏡橋といわれ「奇巧を尽くした石橋」と珍重されてきました。「花洛名勝図会(からくめいしょうずえ)」にも見ることができます。
  ●要石(かなめいし)
  清閑寺境内に石柵で囲まれて置かれている石です。そこから見る京都の眺望は周りの山のおかげで扇のような形となり、この石があたかも扇の要のようであることから名づけられたといわれています。
  ●歌の中山碑
  清水寺から清閑寺に至る道は歌の中山と呼ばれ、清閑寺の旧参道の入口に碑が建っています。その昔は椿など花の咲く木が多く、貴族がこの道で歌を詠んだのが由来といいます。他にも、清閑寺の僧が門前で美女に出会い心動かされたものの「見るにだに迷う心のはかなくて まことの道をいかに知るべき」と歌でたしなめられたなど、諸説があります。
  ●月照・信海・西郷詩碑
  清水寺成就院(じょうじゅいん)の南、北総門の前に月照・信海(月照の弟)の辞世の句碑と西郷隆盛の詩碑が建っています。成就院住職だった忍向(にんこう)(号・月照)は安政の大獄で鹿児島に逃れますが、薩摩藩に拒否されたため錦江湾(きんこうわん)に西郷とともに入水。西郷だけが助けられました。
  ●梟の手水鉢(ふくろうのちょうずばち)
  清水寺轟門前にある手水鉢の台石には、フクロウが仏さまを両脇から護るように彫刻されています。この水で口をすすぐと、歯痛・頭痛が治るといわれています。
  ●岸駒(がんく)燈籠
  清水寺西門の南にちょっと変わったデザインの燈籠が建っています。その正面中央に勇壮な虎図が浮き彫りにされており、「岸駒の虎」で名高い画人・岸駒の晩年の作です。
  ●影清爪形観音(かげきよつめがたかんのん)燈籠
  清水寺三重塔の西、階段をおりたところにひっそりと建っているのが影清爪形観音燈籠です。源頼朝の命を狙い捕えられた悪七兵衛(あくしちびょうえ)影清が爪で彫った、とされる線彫りの小さな観音像が、火袋(ひぶくろ)の中にあります
  ●建礼門院(けんれいもんいん)供養塔
  円山公園内長楽寺の本堂北にある十三重石塔です。安徳天皇の母建礼門院は壇ノ浦の合戦で天皇のあとを追って入水したものの助けられ、長楽寺で文治元年(1185)に阿証房印誓(あしょうぼういんぜい)上人を戒師として落飾(出家)しました。御髪(ごはつ)塔ともいわれます。
●忠盛(ただもり)燈籠
  八坂神社本殿前の一画に立つ燈籠です。12世紀の永久年間、白河法皇が祇園女御の許へ赴いた雨の夜、鬼に出会い供の平忠盛に討ち取るよう命じました。忠盛が生け捕りにしたところ、蓑(みの)をかぶって燈籠に灯りを入れようとしていた祇園社の社僧とわかり、忠盛の思慮深さが人々に感銘を与えたといいます。そのときの燈籠と伝わります。
●奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)
  八坂神社の南楼門そばに、片側には「尋(たずぬる)方」、反対側は「教(おしゆる)方」と刻まれた四角形の石柱が建っています。迷子のしるべ石で、奇縁氷人石または月下氷人石と呼ばれます。尋ねごとを書いた紙を貼って使われたようです。
●行者橋(ぎょうじゃばし)
  知恩院の古門近く、古川町(ふるかわちょう)通が白川に突き当たったところに石造りの簡素な橋が架かっています。延暦寺の回峰行の行者が渡ることから行者橋と呼ばれています。地元では「行者さんが渡る橋だから」と敬って、この橋を渡らない方もあるといいます。
●縁切り縁結び碑
  安井金比羅宮の社務所前にある、高さ1・5メートル、幅3メートルの大きな石がそれです。下に穴が開いておりトンネルのようになっています。石には縁切りや縁結びの願いが書かれた形代がびっしり貼ってあり、さながら獅子のようにみえます。
●阿国歌舞伎発祥の地碑
  慶長8年(1603)に出雲の阿国が四条河原で歌舞伎踊りを行ったのが歌舞伎の発祥とされています。その地に建つ南座の西側に、阿国歌舞伎発祥の地碑が建っています。
●吉井勇(よしいいさむ)歌碑
  歌人吉井勇の古希を祝って建立されたもので、白川を背に祇園新橋界わいの賑わいを見つめてきました。「かにかくに 祇園はこひし寝るときも 枕の下を水のながるる」と、浪漫派歌人吉井の祇園への思いが刻まれています。