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伏見は京都と大坂を結ぶ中継地として栄えた港町。その基盤をつくったのが、豊臣秀吉でした。文禄(ぶんろく)3年(1594)秀吉は伏見城築城の建築資材を運ぶため、大規模な治水工事を行い、伏見港を開き、続いて太閤堤(たいこうづつみ)や槙島(まきしま)堤、淀堤といった堤防を築き、奈良や宇治から京都へ向かうための街道をつくりました。築城と同時に全国各地の有力大名に屋敷をつくらせ、また、商工業者を呼び寄せ中央集権都市としての基盤整備を行いました。 ■港町伏見のにぎわい秀吉の死後、天下を掌握した徳川家康は伏見城にとどまり、幕府の体制を強化していきました。伏見の町は幕府の直轄地で、伏見城下は御座船(ござぶね)や過書船(かしょぶね)の淀川三十石船と呼ばれる旅人専用の乗合船、米や薪炭などを満載した大小の船でにぎわいました。船の発着場は京橋、蓬莱(ほうらい)橋、阿波(あわ)橋、平戸橋などにあり、現在の宇治川派流域は伏見浜と呼ばれ、主に荷揚げ場として伏見伝馬所が置かれました。さながら、物資であふれる流通基地の役割を果たしていたようです。 ■西国大名の発着地伏見宿は伏見港のある京橋周辺が中心で、参勤交代をする西国大名の発着地となりました。本陣は南浜町、山崎町にそれぞれ2軒、脇本陣は京橋と南浜にそれぞれ1軒、旅籠は大小あわせて39軒あったといわれています。坂本龍馬が幕府の捕り手に襲撃され、恋人お龍の機転により危うく難をのがれた寺田屋はいまも南浜に残っています。 ■高瀬川運河の開削家康は御朱印船(ごしゅいんせん)貿易で活躍していた角倉了以(すみのくらりょうい)から申し出のあった高瀬川の開削を許可し、慶長(けいちょう)19年(1614)に京都と大坂が水運により結ばれると、伏見港に船が集中するようになり、高瀬舟の数も元禄時代に入ると128隻に増えるなど伏見はその中継地、京都の南玄関口としてさらに大きく発展しました。京橋界わいには、米、材木、薪炭などを取り扱う問屋、廻船問屋が立ち並び、京橋北詰には高札場、南詰には過書船(かしょぶね)番所、船番所、船高札場などがありました。 ■名水と酒造り 伏見の酒造りは古くから行われてきましたが、その生産量が著しく増加したのは江戸時代になってからのこと。良質の米を産出する近江に近く、できた酒を運ぶのに水運が発達していたこと。また、京の底冷えと呼ばれる冬、寒さの厳しい気候風土が寒造りの伏見酒に適していたことがあげられます。しかし、なんといっても伏見酒の味の良さは、桃山丘陵から流れくる地下水「伏水」が自噴するほど豊かであったことです。現在でもその水質は変わることなく脈々と地下の奥深く流れています。 城下町、港町、宿場町として繁栄した伏見の町も鳥羽伏見の戦いで町の大半が焼かれましたが、南浜界わいには江戸末期から明治、大正にかけてつくられた酒蔵が点在し、その酒蔵で伝統の酒造りが行われています。また、伏見港のあった場所は平成6年に整備され、水と親しめる緑あふれる散策公園となりました。近年十石舟(じゅっこくぶね)も春と秋に復活運航し、三十石船が行き交った往時のにぎわいを想わせるようです。 |
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